I 門人帳の分析

1288 ~ 1291 / 1551ページ
 戸吹村松崎道場の門人帳は、天保五年の道場開設以来、明治四年までのすべての門人を収録しているものである。入門年月日・姓名・居住村のほか、万延元年までは身分とくに千人同心か一般農民かの区別を記している(史料編一九〇参照)。これをくわしく見ていくことによって、多摩の豪農が天然理心流に傾倒してゆく地域・時期・動機、いいかえれば政治にかかわる方向に姿勢を向けはじめる時期・動機について、その一端なりとも知ることができるであろう。はじめに、入門者の在住分布を図にしてみよう。第1図のとおりである。

第1図 松崎幸三郎家『門弟神文許控帳』門人分布(・1人)

 この分布範囲が、第二節四の地域文化圏の範囲とほぼ一致していることは、一目瞭然である。天然理心流の在村文化と共通の基盤を示しているといえよう。
 門人帳の示す事実としてもっとも重要と思われるのは年次別の入門者数の変化である。表にするとつぎの第2表A・B表のとおりである。とくに注目すべきことは、天保五・六年から一〇年代にかけての入門数と、同心・百姓の入門のしかたの変化である。

第2表 松崎道場「神文許扣帳」入門者年次別統計
A表


B表

 天保五・六年の百姓入門者は0である。これは、それまでの天然理心流の多摩地方におけるひろがりが、千人同心(小仏関所番を少数ふくむ)とその子弟の慣習的な武芸習得に基礎をおいていたことを示している。伝統的な幕府の関東領国支配機構末端における支配的現象とみてよいであろう。一般の百姓身分のものに、まだ武術習得に走らねばならない状況が、さしせまって意識されてはいなかったものと思われる。
 天保七年に、はじめて百姓身分のものが、同心の五名にまじって入門している。戸吹村からはかなり遠い多摩郡三ツ木村(現、武蔵村山市)の川口宗次郎(子孫川口惣次郎氏によると墓碑に「千人隊」に入っていたことが刻まれていたという。武術習得後に同心の株をえたものであろうか)である。戸吹からは、多摩丘陵と多摩川をこえ、拝島を通りぬけたところで、道のり約四里の狭山丘陵南麓の村である。
 それ以降、天保八・九・一〇年と百姓身分の入門者がふえてゆく。そのなかに昭島の村々の人名をみることができる。そのころの各年の村名と人数を表にすると、第3表のとおりである。

第3表

 それ以後、年によって変動もあるが、全体の傾向としては、A表のとおり、入門者中百姓身分の者のふくまれる比率はきわめて高くなっている。明らかに、天保七年以後、天然理心流は、郷士的な千人同心のみの武術から、一般百姓身分の豪農の武術へと、その基本的性格をかえていることがわかる。松崎道場は、いわば「千人同心時代」の末期に開設され、「豪農時代」の初期にあって急速に成長したものであろう。
 また、年間入門者数も、千人同心時代末期の天保五年四名、六年二名に対し、豪農時代の幕あけによって八年九名・九年一五名・一〇年四二名と、急増している。最高は、慶応三年の五七名で、武州世直し一揆がおきた翌年である。これは豪農と武術習得との関係を考えるのに重要である。
 補注
 渡辺一郎『幕末関東剣術英名録の研究』は、直心陰流の萩原連之助(旗本杉浦氏の譜代家臣で高百二拾石八人扶持の家柄)の相模国鎌倉郡川上村にひらいた道場の入門帳(弘化三年以降)による入門者数年次統計表によって、(1)ペリー来航を契機とする相州沿岸防衛強化の嘉永年間末期、(2)安政三年、(3)文久三年以降、の三つのピークがあり、農村指導者層の入門は(1)から見られ、農民入門者の急増は(3)の時期にあたる、と指摘している。多摩郡と若干事情がちがう面もみられる。