天保七年~一〇年、天然理心流の同心時代から豪農時代への移行の契機は何であったろうか。直接にこれを記す史料は今のところ見られないが、天保飢饉直後の時期にあたっていたことは重要であろう。天保七年八月には、多摩郡と経済的にも文化的にも深いつながりのあった甲州郡内地方に未曾有の打ちこわしがおきた。それにつづいて同年十一月には、多摩入間両郡一帯の打ちこわし予告の貼り札事件がおきている。翌八年には、全国各地に深刻な影響をあたえた大阪の大塩平八郎の乱がおきている。
甲州郡内騒動のばあいは、昭島市域にもきわめてくわしい情報がつたえられ、村々に書留められた。上川原村のばあい「甲州郡内領村々騒立候趣申上候書付」と題されたもので(指田万吉家所蔵)、代官井上十左衛門の幕府への詳細な報告書を、ほとんどそのまま写しとったものである。八月二一日の発端からはじまり、二二日には郡内地方から甲府盆地山梨郡・八代郡にまで早くもひろがった様子、打ちこわされた家の名、谷村・石和・甲府などに詰めている代官では取鎮めようがなかったこと、代官所もこわされたうえに、甲府城下町に火がつけられ、城の御蔵に手がかけられるかもしれないという風聞などが刻明に記され、信州諏訪伊勢守への援軍要請とその陣立て、甲斐国惣社御嶽山神主らの援軍の姓名書等々、きわめて詳細である。
こうした郡内騒動の発起となったとして幕府から処罰をうけた村々のうち八ヶ村が、文化年間の『春山集』(第二節四参照)に、多摩郡や昭島の在村俳人にまじって登場する郡内俳人の在住村であった。いずれも織物取引きをつうじて八王子市場と深く結びついている村々でもあった。多摩郡の豪農たちは、これら郡内俳人からの私的情報も入手したことであろう。なおさら深刻な影響をうけざるをえなかった(織物などをめぐる経済的交流については、同前および第三章第三節二参照)。
天保七年一一月の多摩・入間郡の貼り札事件は、穀物・糠(ぬか)(肥料用)の買占めをおこなう穀屋に対する打ちこわし予告だけに終ったものだが、郡内騒動の直後であるうえに、屋号をあげられて打ちこわし対象に指名された穀屋の居住地が、青梅・所沢・扇町屋・三ツ木・中藤など、経済的・文化的にもっとも日常的交流の深い村々である。距離的にもほんの一~三里の近さであった。たとえば上川原村の指田七郎右衛門は、まゆ仲買をいとなんでいたが、まゆの仕入れの最大の得意先は中藤村であった。中神村中野久次郎の縞買経営でも、青梅は重要な得意先であった(第三章第二節参照)。もちろん俳諧仲間も大勢いた。多摩郡各村の豪農に与えた精神的打撃は、はかりしれないものがあったであろう。
こうした天保七年の豪農の精神状況を、間接的だが示している史料が上川原村にのこされている(詳細は第三章第二節四を参照)。指田金右衛門の覚書(指田万吉家所蔵)の一部である。覚書の記述はさまざまだが、「丙申年諸事」(丙申は天保七年)と表題された頁は、はじめに「家康公」の父母の名、誕生年月日・幼名などを二~三行かきとめてあったのを、墨線で消したうえ、それ以上に重要な事柄と考えたのであろう、天保七年の世相の険悪なありさまを、天候異変と作物の不作ぶり、穀屋の買占め、価格つりあげ、穀物・糠の値段などを記しながら、「貧民取締かね、人気不穏」という言葉で説明している(史料編九七参照)。
金右衛門のこうした覚書を、全国規模で裏書きするような事件が、翌天保八年二月におきた。「天下の台所」といわれた経済の中心地大阪で元幕吏大塩平八郎が「救民」の旗印をかかげておこした乱である。乱そのものは間もなく治められはしたものの、中心人物が四〇日近く姿をかくしていたので、再起をおそれた幕府は、全国に人相書をくばって逮捕に全力をあげねばならなかった。事件そのものは短日時に全国津々浦々にまで知れわたり大きな影響をあたえた。大塩を崇めたりその檄文を廻し写したりするものが絶えず、大塩に影響された一揆も各地でおきるほどであった。
昭島の村々にも、人相書などが廻わされてきた。大神村では三月付の「当二月二九日不二容易一及レ企ニ大坂市中所々放火いたし及二乱妨一候元大坂町奉行組与力大塩平八郎并組与力大塩格之介」ほか数名の人相書・手配書と、四月二日付の『大阪大変次第不同記』と題した小冊子が写しとられている。後者は事件の顛末を取締り側から記した記録である(中村保夫家所蔵)。いずれにしろ幕府を震撼せしめたこの事件の詳細は、一~二ケ月中には昭島の村人たちにもすっかり知れわたっていたわけである。
前年八月からほぼ半年の間にたてつづけにおきたこれらの事件によって、多摩郡各村の豪農商は、「貧民取締かね、人気不穏」の社会状況を、いっそう深刻にうけとめざるをえなかったであろう。
これに対処して、村落秩序を再編しながら、豪農商の新たな経済基盤をまもろうとするとき、多摩郡のばあいまずは身近にいる千人同心の郷士にならって、武術~武力を身につけようとする方向へ向かったとしても不思議ではない。しかしそれは、たんなる武術~武力にとどまらず、つねに武術~武力を行使しうる体制、いいかえれば一種の政治力を身につけることになる。その場合千人同心は、幕府の領国支配における政治の末端であった。天保期段階では、多摩郡の豪農商が一種の政治力を身につけようとしたとき、幕政末端の千人同心のほかに当面ならうべきものをもちえなかったことは、農商庶民層全体としては一つの悲劇であったかもしれない。のちに武州世直し一揆鎮圧のさい築地川原での惨劇に猛威をふるうことになる日野農兵隊は、「千人同心衆相頼、教導を請(こい)、下(し)た練習致し、可成(かなり)手舞足並等覚候」というやりかたで鋭意訓練されたものであった(佐藤〓氏前掲書)。
こうした限界~悲劇をうちにふくみながら、多摩の豪農商にとって「貧民取締かね、人気不穏」の社会状況への、もっとも手近な対処のしかたは、何よりもまず千人同心を見習うことであり、天然理心流を身につけることだったわけである。こうして、天然理心流戸吹村松崎道場は、設立二・三年にして豪農の、おもに跡取り息子たちの入門ブームにぶつかった。天然理心流は、「同心時代」から「豪農時代」へ展開していったのである。昭島からの入門者も、豪農時代の本格化した天保九・一〇両年で、二ケ村六名をかぞえるに至った。
ところで、豪農のこうした天然理心流習得熱の契機に、郡内騒動などの諸事件への反応をあげる理由として、間接的ではあるが、次のようなことも指摘できよう。
先述のように、郡内騒動の詳細な報告書が上川原村などでかきうつされていたわけだが、そのなかに、一揆を鎮圧できずにいた代官所への援軍として、甲斐惣社御嶽山神主の一隊が動いていたことが記されている。やっと鎮圧したあと「御嶽山神主等御加勢ニ罷出候もの共へ御褒美被二下置一」(中央大学前掲書所収『甲斐一揆騒動実録』)ともある。先の第2-A表の註に記したように、松崎道場天保一四年入門者全三六名には、武州御嶽山の大宮司一名御師一三名の集団入門者がふくまれている。いずれも「山上御師」といわれる専業者である。ほかに「山下御師」という百姓兼業者もいた(斎藤典男『武州御獄山史の研究』)。甲州と武州のこの御師の動きは、まったく無関係なことではあるまい。
武州御嶽山は、家康を神格化した「権現」をまつっており、「権現御輿(みこし)警固役之事……永々子孫迄急度(きつと)可レ被二相勤一候」という役割を、元禄~正徳(一七〇〇年前後)頃からみとめられてきた(同前一四三頁所引より)。いわば幕府権力基盤としての関東の精神的鎮撫を、北端の同じ権現をまつった日光東照宮と組する形で分担するものと意識されていたことになろうか。また同時に多摩郡の村々のあつい信仰もうけており、高尾山などと並んで多摩郡における農村秩序の精神的な紐帯の一つでもあった。こうした一定の支配的な立場を保ってきた御嶽山の御師集団入門は、かれらが、豪農たちと同様の、あるいはそれ以上に強い社会的な危機感をいだいて、その解決の途を武術習得に求めたものと考えてよいであろう。甲州御嶽山神主の郡内騒動での動きを直接知っていたか否かは、確かめられない、後代の研究調査にまちたいと思う。
なお豪農層と神主層が幕末に同じ文化的政治的動向に傾倒していた例として、尊王攘夷運動の在村的潮流の役割をはたした、平田派国学~復古神道がある。とくに信州伊那谷の豪農たちにおける盛行ぶりは、島崎藤村が小説『夜明け前』に描いて余すところがない。師の平田篤胤の著書出版運動をすすめ、さらには京にのぼり、尊王攘夷運動に参加した。多摩の天然理心流のばあいは、それほどには政治思想としての意味は強くないにしても、幕末の社会不安と対外危機の解決の道を、武力習得という形で豪農・神主が共通して求めた一種の政治力、ひろい意味での政治意識~政治思想の一つと見てよいであろう。ちなみに、さきの天保一四年松崎道場入門の御師一三名中、「片柳右衛門」あるいはその嗣子と思われる同姓名の御師が、文久四年三月七日に、平田門に入門している(『平田門人録』による)。
このほか日常の文化的な面でも豪農と神主層との結びつきは強かった。昭島にかかわる点だけでいうと、たとえば郷地村の在村的文人の代表である不老軒うたゝは、となりの柴崎村諏訪神社神主で国学者の宮本舎(みやもとのや)宮崎詮房や、府中大国魂神社神主でやはり国学者の猿渡氏と親交をもっていたらしい(第二節二、所掲「天野佐一郎識」参照。ただし天野は、猿渡容盛としているが、うたゝの年令からいってその父親の盛章(寛政二年生れ)ではなかったか、と考えられる。)。和歌を通じて猿渡門下の国学に入ったものとしては、田中村矢島定右衛門がいる(第四章第一節、第二節二参照)。また昭島の在村俳人が大勢参加している八王子榎本星布尼『春山集』には、多摩郡各村の信仰をあつめている相州大山の神官・御師一九名が、句をよせている。矢島定右衛門も採録されている猿渡門下の歌集『類題新竹集』の参加者には、平田篤胤門下に加わっている神官も少くない(以上『平田門人録』は国会図書館所蔵写本による)。
こうした日常の文化的立場を共有しあう神官層をふくめて、多摩郡各村の豪農連は、天保七~一〇年を境に、天然理心流習得熱という一種の政治的意味合いをもつ武術習練に傾倒していった。その後、明治維新の直前まで、松崎道場では先表のとおり大部分の年が入門者一五名以上という状態をつづけていた。そのなかに三〇名前後に入門者が急増する年が、いくつかみられる。政治的意味合いがとくに強くあらわれた年と考えられよう。
天保一四年~弘化元年のピークは、天保改革が老中水野忠邦の失脚によって頓座した年とその翌年である。嘉永元~二年は、外国船来航が多く、多摩郡の代官でもあった江川太郎左衛門の農兵論がふたたび主張される時期である。嘉永六年~安政元年はもちろんペリー来航・再来航の年にあたっている。文久年間は、幕府が農兵を採用・実施する時期である。新選組の前身である浪士組が動きだした時(文久三年正月)にもあたっている。いずれも、多摩郡の豪農連にとっては、政治意識をいやがうえにも高めねばならない時であったろう。
さらに年間入門者がとびぬけて多かったのが、慶応三年の五四名である。これは、前年におこって入間郡・多摩郡のみならず武州全域ほとんどをおおった、いわゆる「武州世直し一揆」の影響以外には考えられないであろう。第五章第三・四節でくわしくのべるように、この世直し一揆は、六月一三日秩父郡名栗村からおこり、またたくまに武州全域にひろがった。その一隊が一五日には青梅から福生まですすみ、福生村名主で酒造業を営む重兵衛宅を打ちこわした。一六日には早朝から拝島村穀屋庄兵衛宅にはじまり、中神村名主で縞買・利貸を営む久次郎宅、宮沢村酒造業の金右衛門宅などを打ちこわした。「世直し勢」は、さらに八王子へ向け多摩川を渡ろうとした。最終的には物価高騰などの諸悪の根源とみなされていた開港場横浜をめざしていたらしい。昭島市域の築地村渡船場に集結したところを、対岸に待ちかまえていた八王子・日野・駒木野の農兵隊と江川代官配下の手代勢が襲撃をかけた。数十挺の鉄砲と天然理心流の刀剣によるはげしい武力行使に行手をはばまれ、世直し勢は築地川原に死者一〇人以上をのこして、その日のうちに四散するにいたる。
多摩郡四〇軒・入間郡八六軒、武州一四郡で合計四三〇軒を打ちこわしたこの事件が(軒数は第五章第四節所掲の山中清孝論文による)、昭島をはじめ多摩の打ちこわされる側としての豪農連に与えた衝撃の大きさは、はかりしれない。また逆に、農民が農民を殺傷するという惨劇を目のあたりにした衝撃も大きかったろう。築地川原の戦闘などではじめて目撃した農兵隊の組織された武力の強力さにも驚愕したであろう。幕藩領主の能力が失せた社会不安のなかでは、武力行使そのものが単純ながら最大の政治力であるという認識も強めざるをえなかったであろう。その年の秋、松崎道場には一一人の入門者があった。翌三年には、正月一六人・二月一一人・三月八人・四月一〇人とつづき、一二月までに合計五七人を数えるにいたるのである。入門者の在住村名と入門者人数はつぎのとおりである。
五日市村(九)・雨間村(三)・宮下村(二)・川口村(三)・引田村(一三)・芋久保村(一)・奈良橋村(二)・御嶽山御師(三)・戸倉村(五)・留之原村(一)・高尾村(一)・案内村(三)・箱根ヶ崎村(四)・養沢村(三)・青木平村(五)・駒木野村(二)・石畑村(三)・勝楽寺村(一)
慶応二年秋以後三年末まで、一八ケ村六六名におよんでいる。この時期に昭島からの松崎道場入門者はいないが、前述のとおり、日野宿の佐藤道場慶応三年入門者四〇名のなかに、昭島村域八名の名が見える。松崎道場・佐藤道場のみならず、他の多くの道場をあわせれば、この時期多摩地方の天然理心流入門者数は、相当なものであったにちがいない。道場の数自体が明確ではないが、先に引用した『武術英名録』の記載する道場持ちクラスと思われる剣術達者のうち多摩郡で天然理心流にぞくするもの四七名である。ほかに北辰一刀流にぞくするものも四名ほどいる。必ずしも全員が建物としての道場はもっていなかったにせよ、弟子をとって庭先や土間で指南するていどのことはほとんどのものがやっていたであろう。全貌は不明だが、この時期に多摩郡の豪農で武術習得に走ったものは、かなりの数にのぼったであろう。
このように、天保期一〇年前後以降、多摩郡豪農にとって、天然理心流の習得は、一つの「政治」意識の表明であった。その内容を、右のような入門者数の変化から推測すると、つぎのように結論することができようか。
(一) 郡内騒動・武州世直し一揆など貧民層の反封建闘争に対する豪農商としての村落支配・経済基盤擁護の対応
(二) ペリー来航など欧米列強諸国の軍事的外交的な圧力への民族的な対応
(三) 幕府の農兵制など、幕藩制を何らかの方向でこえる新たな権力強化策(統一政権志向)に同化する対応
昭島市域の豪農も、少くとも右の三点を多様な比重のかけ方でふくんだ政治意識を、それぞれいだいていたことになろう。しかし、その武力の対象の一つ世直し層をふくむ一般庶民の方には、「剣術教授は大馬鹿たわけめ、何にも知らずに勝気十分」(「ちょぼくれ」、青木恵一郎『世直しの唄』)と嘲けりとばす風潮がひろがっていたことも忘れてはなるまい。武士・郷士に似せた豪農の武装化という動きだけでは、もちろんこの時期の外圧に抗することも反封建闘争の高まりをおさえることも、困難なことが見透かされていたわけである。
こうして豪農一般の政治意識も、天然理心流の習得か農兵隊への参加だけでとどまることがおおかった。昭島の豪農連も、おそらくは全員がそうであったろう。しかし一部には、こうした政治意識がもっと先鋭化し、政治運動の実践にまで進むものもあらわれていた。多摩のばあいその顕著な例が、「新選組」あるいは尊王攘夷運動への参加であった。ここで狭義の政治運動の面から、豪農と天然理心流の関係を見てみよう。