K 天然理心流と新選組あるいは尊王攘夷運動

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 もともと新選組の前身は、文久二年暮成立の浪士組にあった。幕府が薩摩など雄藩の協力で公武合体運動をすすめる時期に、膝下に尊王攘夷を唱えてやまない浪士・草莽の士たちを、懐柔・統制するべく組織されたものである。組織されて早々文久三年正月、一四代将軍徳川家茂の上洛がおこなわれることとなった。この上洛は、公武合体の実をあげることを主要目的としつつ、孝明天皇の攘夷の勅命にも応える必要に迫られて、行われることになったものである。この時、家茂警護の前衛の役割をうけて浪士組二百数十名が上京した。そのなかに、天然理心流では、近藤勇・土方歳三・落合源一郎・山南敬助・沖田総司・井上源三郎らがふくまれていた。この段階の天然理心流の在村剣士連は、公武合体運動に沿いながら、尊王・攘夷・佐幕の各要素を未分化にはらんだままの政治意識をつよめつつあったと思われる。
 京についた浪士組が、公武合体に反対する在京の尊王攘夷派と対決せねばならなくなったとき、二つの方向に分裂しはじめた。一つは、浪士組の発案者の一人で羽州(山形県)の元浪人清河八郎を中心とするグループである。多摩の天然理心流では松崎門下小仏関所役人落合源一郎(駒木野村)がこれに加わっている。かれらは独自に朝廷側へ建白書を提出した。将軍家茂が皇命をうけて「攘夷」を実行するというので「尽忠報国」のために上京したわけだが、万一皇命を妨げ私意を企てるものがいたときには、「勤王」の立場に立って「攘夷之大義」をまっとうしたい、という趣旨のものである。早くも、攘夷に気乗薄な幕府が統制しかねる方向に走りだしていたわけである。そこで折から、前年の生麦事件処理の要求のためイギリス軍艦が横浜へ渡来していたのをきっかけに、幕府は朝廷側から浪士組に、イギリスとの間に兵端が開かれるやもしれないので江戸へもどって攘夷実行に忠誠を励むべしという命令を出させた。清河を中心に落合ら尊王攘夷的性格のつよいものは直ちに江戸へもどったが、この時、反尊攘志士の性格がつよく、将軍家茂の警衛の方に重点をおくもの二三、四名は、希望して京都に残留した。これが、浪士組のもう一つのグループで、近藤勇らが中心となって京都守護職松平容保の指揮下に入った。さらにこのなかから、根岸友山(武州冑山村豪農)ら尊王・攘夷の色彩のこいものが脱隊し、のこり一三、四名近藤・土方・山南・沖田らを中心にやがて「新選組」が編成されてゆくのである(以上、平尾道雄前掲書)。
 さきに江戸へもどった落合源一郎は、文久三年・元治元年二度にわたり尊攘挙兵を画策、慶応三年には薩摩藩の倒幕派志士募集に応じ、相楽総三(下総の豪農・郷士の子)・権田直助(入間郡毛吹)ら平田派国学の流れをくむ草莽の志士たちとともに、江戸市中の攪乱作戦に加わった。幕府側の薩邸襲撃を機に薩艦によって西走、京で西郷隆盛らの賛辞をえている(高木俊輔『維新史の再発掘』参照)。根岸友山もおなじく薩藩側の志士に加わっていたらしい(小野文雄「近世関東農村における豪農の成立と経営について」埼玉大学紀要)。やや叙述が細部に入りすぎたが、要するに、天然理心流習得者の、一部であれ突出した政治運動への意識のあり方をまとめてみるとこうであろう。
(一) 根本的に共通するものとして、国内の社会不安と対外的な民族的危機感から生れる尊王(強力な統一政権志向)と攘夷(民族的独立志向)の思想。(尊王攘夷思想)
(二) 尊王攘夷を、「公武合体」(天皇を上におく将軍主導の統一政権志向)の線にそってのみ進めようと、佐幕的・反志士的性格をつよめて新選組に組織されてゆく方向。(代表例、近藤勇・土方歳三)
(三) 尊王攘夷を、「尊王倒幕」(天皇親政の統一政権志向)の方向で進めようと、反幕的色彩をつよめて薩長倒幕派に加わってゆく方向。(代表例、落合源一郎)
 昭島市域の天然理心流習得者たちも、直接の政治運動にまでは入らなかったものの、右のような政治意識の方向を、さまざまな比重で、未分化ながら内にもっていたものと見てよいだろう。