L その後の天然理心流

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 さきの「ちょぼくれ」が見透かしていたように所詮、武術は個の肉体が直接行使する小さな武力でしかなかった。幕末~維新変革期をとおして真の意味の「政治」になるはるか以前の姿のまま、薩摩・長州の藩組織の洋式化された集団軍事力の形をとるもう一つの『政治』の前に敗北した。新選組に加わったものは、慶応四年正月鳥羽伏見の戦に敗北したあと江戸に戻り、三月甲州鎮撫隊に加わり、甲州勝沼戦争で坂垣退助らのひきいる東征軍にふたたび敗北した。近藤勇は下総流山にいったん陣したが捕えられて四月に刑死、土方蔵三は北関東を転戦ののち箱館五陵郭で翌明治二年五月六日流れ弾にあたって戦死した。草莽の士として尊攘派に加わった落合源一郎は、維新後いったんは官途についたが、いくばくもなく辞し、国学者として仙台に教院をおこし、国学を講じながら養子落合直文ら国文学者を育ててゆく道をあゆんだ。甲州鎮撫隊参加後日野宿にとどまっていた佐藤彦五郎も、八王子に入った東征軍の追求をうけて逃げまわる身となり、赦免歎願の末にやっと自宅へもどることができた。以後、宿名主~区長~郡長をつとめたあと、在村俳人「春日庵盛車」として余生をすごしたという(佐藤〓前掲書)。
 こうして多摩豪農連の「政治」が、『政治』に敗北してもとの「武術」にもどされたとき、敗北した側として「武術」であることも放棄せねばならなかった。東征軍の追求の前に、「政治」にかかわっていた証拠をかくすために、天然理心流に関係した書類・名簿・奉額などのほとんどが破棄されたのである。昭島の村人の名前がのっていた日野宿佐藤彦五郎道場の「神文帳」も、かろうじて破棄をまぬがれたその一部にすぎない(同前)。
 やがて明治一〇年代、欧米からの自由民権思想の摂取によって、国民が『政治』に対峙しうる道が見えてくると、天然理心流は「壮士」の姿で歴史の舞台に登場できるようにはなった。しかし政治の真の自立の可能性をはらんでいた自由民権思想も、「大日本帝国憲法」体制のもと明治二〇年代以降は、壮士の悲憤慷慨調を前面にのこして後退を余儀なくされていた。ふたたび「武術」への逆もどりであった。しかもすでに「上からの文明開化」におおわれんとしていた「近代社会」では、もはや武術でさえもなかった。流派の伝統的な区別もあいまいになって、一般には撃剣などとよばれ、「撃剣をやると第一に身体の為にもえいし」(明治一八年坪内逍遙『当世書生気質』)のようなスポーツの一つとうけとられていた。昔からの天然理心流在村剣士の気風はまだ盛んではあったが、道場の門人仲間だけの一種閉鎖的なものになっていかざるをえなかった。たとえば二宮村井上道場でも、前にのべたように門人仲間最大の関心事は、もっぱら拝島本覚院奉額などにあらわれる門人序列の上下だけに集中していた。大正二年一一月二三日の大日公園は、奉額記念の「大撃劔大会」に集まってきた大勢の市域村民でにぎわったことだろう。しかしあくまでも見物人であった。幕末社会の内外の危機情勢に迫られて武術に関心をもたざるをえなかった人々ではなかった。国民文化成長の正面舞台からは退いた、過去の珍らしいものへの関心であったろう。
 多摩の豪農たちが、天然理心流とならべてしたしんでいた在村俳諧も、近代俳句革新運動をすすめる正岡子規らによって、「月並調」の典型として排除され、そのうえに近代国民文学も成長した。
 こうして近世の「在村文化」はあらゆる面で、みずからが土台となった近代の「国民文化」の成長を見とどけながら、姿を消してゆくのである。