(一) 『植崎九八郎存念言上書 写』(上川原町指田十次家所蔵)
天明七(一七八七)年に著された老中田沼意次の政治への批判の上書としてよく知られているものの写し。寛政一一(一七九九)年のものとして写されている。
(二) 『寛政秘伝書 写』(上川原町指田万吉家)
寛政四(一七九二)年光格天皇の父=典仁親王の太上天皇尊号宣下を、時の老中松平定信が停止させた一件をめぐる定信への尊王論的な批判の書で、何種類も流布しているもののうちの一書の、文化五(一八〇八)年写し。
別の一書『中山物語』(同一件で江戸に召喚され、定信と問答・激論に及んだ議奏中山前大納言愛親の姓にちなむ題名の一書)は、貸本屋などをとおして流布していたが、幕府の咎めるところとなり、貸本屋たちが処罰、写本類はすべて焼却され、またこの物語を語っていた講談師が逮捕・投獄されたが、その娘の孝心により死罪だけは免がれた、とされている。(滝沢馬琴ら『兎園小説』・宮武外骨『筆禍史』・今田洋三『江戸の本屋さん』参照)
(三) 『杉本茂十郎不正一件趣意書 写』(拝島町秋山太郎家)
江戸十組問屋頭取として、幕府の株仲間強化策へ協力、冥加金・御用金の取立てに辣腕をふるって怨嗟の的となっていた豪商杉本茂十郎を、文政二(一八一九)年不正ありとして罷免・追放したときの江戸町奉行所の趣意書写し。
(四) 『甲州郡内領村々騒立候趣申上候書付 写』(上川原町指田万吉家)
天保七年八月二〇~二二日に甲州郡内地方におこり、山梨郡・八代郡一帯にひろがり、甲府城にまで迫った大規模な打ちこわしにかんする代官井上十左衛門の幕府への届書の写。(本節二項J参照)
(五) 『大塩平八郎人相書』 (大神町中村保夫家)
『大坂大変次第不同記』(拝島町島田タダ家)
天保八年二月一九日大坂で、もと町奉行所与力の陽明学者大塩平八郎がおこした反乱にかんするもの。前者は潜伏した平八郎らの逮捕にやっきになった幕府から三月に出されている人相書、後者は事件の顛末を鎮圧側で記録したものの四月二日付の写し。(本節二項J参照)
(六) 『山鹿素水上書 写』(大神町中村保夫家)
老中阿部伊勢守あての「外寇御守衛之儀ニ付」いて相模・安房など江戸湾の防衛策を論じた意見書の写。嘉永二(一八四九)年。
(七) 『亜墨利加(あめりか)船より差出候書翰之和解 写』(拝島町小山重男家)
嘉永六(一八五三)年アメリカ大統領フィルモア及び東インド艦隊司令長官ペリーの提出した書翰の翻訳の写し。
(八) 『安政五年アメリカ国と交易之儀ニ付御老中堀田備中守殿御上京聞書 写』(大神町中村保夫家)
安政五(一八五八)年一月、幕府が日米修好通商条約調印の勅許(天皇の許可)を請うため派遣した老中堀田正睦の上京顛末と、同年三月二〇日付天皇の不許可勅答の写し。動揺した幕府ではこの直後に大老井伊直弼の登場、安政の大獄が始まる。
(九) 『安政六年未五月諸事控』(上川原町指田万吉家)
『銘々評句合』(上川原町指田十次家)
横浜などの開港がはじまった安政六(一八五九)年五月直後の『諸事控』には、「浦賀横浜之異国交易始ル」とあり、同じころの俳諧連歌にはつぎの交易批判の句が含まれている。(第四章第二節三参照)
交易の場所は格別賑(にぎわわ)で (上川原)指月 (「で」は打消の助動詞。にぎわわないでの意)
近クきこへるあらなみの音 〃
(十) 『水府公一件御沙汰書 写』(中村保夫家)
安政六(一八五九)年八月二七日付の大老井伊直弼による反対派大弾圧事件である安政の大獄の処分命令書の写し。水戸藩徳川斉昭・徳川慶篤・徳川慶喜・安島帯刀ら、および幕臣岩瀬忠震・川路聖謨・永井尚志らの処分。
(十一) 『柳乃井戸雪の明ぼの』(指田万吉家)
万延元(一八六〇)年三月三日大老井伊直弼の暗殺された桜田門外の変の始末書写し。
(十二) 『(朝幕関係諸事控)』(指田十次家)
文久元(一八六一)年十二月~二年四月、皇女和宮降嫁(二月一日)をはさんだ時期の朝幕関係。(一)長州藩長井雅楽の「航海遠略策」(朝廷に開国皇威伸長を、幕府に朝命順奉を説く公武合体論)を採用した藩主毛利慶親の一二月八日建白書の二月付写、(二)三月一五日毛利公登営し老中久世広周に面会、家茂上洛・攘夷実行の朝命軽視を論難、長井雅楽をして公武斡旋せしむべき事の献言、および幕府これを容れて長井雅楽を上京せしむる幕命などの顛末記、(三)十年以内攘夷実行のため武備促進を命ずる四月七日付宣命写し。公武合体での朝廷側の立場強化がよみとれる。
(十三) 『殿中御沙汰書 写』(同前)
文久二年一一月中の江戸城内の諸通達の写。内容は、一一月一七日参勤交代緩和につき関所へ達し、二〇日井伊掃部頭(直弼の子)ほか大老井伊直弼政権下要人多数の処罰のこと。二三日朝廷側からの圧力により「御台様」の称号廃止し「和宮様」と変更のこと、二七日勅使三条実美御親兵設置・攘夷実行督促を伝達のこと、来る二月家茂上洛に付き諸事御手軽供奉勝手次第たるべき事など、朝廷の権威の上昇と幕府側の失墜の様子。
(十四) 『亥七月中京都浪人士乱防致候荒増写書』(同前)
文久三(一八六三)年七月中、外国交易に関係した京都丁子屋吟次郎・布屋彦太郎・同市次郎ら数名の商人への斬奸状および布屋両名の助命歎願書・高台寺焼払制札などの写し。
(十五) 『八月一七日京都大内之騒動書付 写』(同前)
上方の商人と思われるものから、「伊勢惣」という商人にあてた書付の写し。文久三(一八六三)年尊攘派三条実美らを一掃した八月一八日政変前後の経過と、大和天誅組の変など、畿内一帯不穏のようす、および金相場騰貴などの経済不安、尊攘派の「浪人」へ味方するものが増加している状況などを記す。
(十六) 『但州生野陣屋え浪人共立入人数押寄候趣奉申上候 写』(同前)
文久三年一〇月一二~一四日平野国臣ら尊王攘夷派が生野(兵庫県)の代官所を襲撃した生野の変顛末写し。
(十七) 『(天誅張紙 写)』 (同前)
文久三年一一月、江戸小網町野田屋ら八名の貿易商人宅へ天誅を加えるべき旨の「報国義士」の張紙写し。
(十八) 『御宸翰 写』(中村保夫家)
文久四年(一八六四、元治元年)正月孝明天皇から、参内した将軍家茂にあてた直筆命令の写し版本。八月一八日政変後の処置として、攘夷を緩和し、「今ノ天下ノ事朕ト共ニ一新セン事ヲ欲スル」という公武合体の方向を命ずるもの。
(十九) 『京師相登リ候長州之藩士之模様来状之写』(同前)
元治元(一八六四)年七月十九日禁門の変における長州藩兵と幕府側との「実以(じつにもつて)戦国之模様は、か様成事かと恐入候儀ニ而、渡世等モ手ニ付不レ申候」ような戦闘状況と社会不安をつたえる上方商人からの書簡の写し。
(二〇) 『子七月廿日出松平越中守様京都より早駈持参書之写』
元治元年七月一八日におきた禁門の変の戦闘の模様について、京都所司代松平越中守定敬から幕府にあてた報告書の写し。そのほか長州藩の大坂蔵屋敷引払いについて『湊町年寄被レ招左之通申渡 写』など
(二一) 『野州表ニ浮浪之徒屯集致候ニ付御追討 戦争之模様陣中聞書 写』
元治元年三月にはじまった筑波山における水戸藩尊攘激派天狗党の乱の七月段階における戦陣のようす、戦争の経過など。そのほかに『子七月廿五六日頃水府ニて争戦之聞書』・『子九月七日水戸下町接戦之次第聞書』など。
(二二) 『横浜乗組之者之日記 写』(中村保夫家)
元治元年七月二八日に横浜を出帆したアメリカ「ターキヤン艦」に同乗したものの日記体で、四か国連合艦隊の長州下関砲撃事件の顛末をアメリカ艦上から見聞・記述したものの写し。
(二三) 『大樹公大坂〓御進発ニ付、長防御征伐と申儀ニ付被二仰渡一候書付 写』(指田十次家)
元治元年七月二三日に決定された第一次長州征伐に関する牧野備前守忠恭からの命令書の写し。ほかに征長惣督・副将の任命指示書の写しなど。
(二四) 『条約勅許・兵庫開港に付き歎願書 写』(島田タダ家)
慶応元年一〇月一日、先月中に京二条城を退いて大坂城に滞在中の将軍家茂が、孝明天皇に条約勅許・兵庫開港の奏請のため、前尾張藩主徳川茂栄(茂徳)を通じて提出した直書の写しで、「歎願書」と題されている。すでに英米仏蘭四か国公使が兵庫開港強要の為、軍艦で兵庫に来ている国際緊張下のこと。
(二五) 『将軍職辞職に付き歎願書 写』(同前)
家茂が、慶応元年一〇月二日、病弱を理由に将軍職を隠退、慶喜に譲り江戸に帰ることを孝明天皇に奏聞した「歎願書」の写し。前項とともに二日関白へ提出されたもの。結局、兵庫開港不許可・条約勅許・家茂辞職東帰不許可におわる。
(二六) 『長防合戦日記 写』(普明寺蒐集旧青木伝七家)
慶応二年六月第二次征長の戦況にかんするもので、六月五日~二一日の『大坂表御届ケ御書付 軍目附坪内河内守殿御老中え言上写』、同一四日~二四日の『紀伊公より七月朔日被二申越一候書付写』などからなり、幕府側の敗北・苦戦のようすを言上した報告書の写し。
(二七) 『御老中松平周防守御渡書付 写』(同前)
慶応二年八月一日、老中松平周防守康直から、重病の将軍家茂万一のばあいに、あとを一橋慶喜に相続するべきことを示した書付の写し。その裏表紙につぎのような歌が、おそらく筆写した拝島村青木家のものの手によってであろう、記されている。
一「まよふとは みないつは(偽)りか そらごとか まよはねばこそ 君がまどろむ」
二「今見ゐし 花のこずへお(を) をしかく(押隠)し しやうね(性根カ)は 春のかすみかな」
三「夜ゑ(宵カ)もまち 夜中もまちて 赤月(暁カ)に ゆめにみよとて 少しまどろむ」
四「今見ゐし 花のこずへを 折たくば 古夜(こや、小屋カ)え泊れや 旅の(マヽ以下なし)」
(二八) 『天正拾壬午歳甲州落去八王子千人組覚書 写』(中村保夫家)
元文元(一七三六)年の八王子千人同心由緒書を、慶応二年(一八六六)三月大神村名主家で、千人隊組頭から借用して写したもの。内外の危機に対処するかたちですでに農兵隊が組織され、日野などでは千人同心の協力による農兵訓練も行なわれていた。千人同心への新しい関心によって書き写されたものか、同心株買得の考えからか。
(二九) 『合戦書 写』(指田万吉家)
慶応三年一二月一〇日から、慶応四年一月九日(明治元年、一八六八年)までの「京地之一件同所詰居候方より書記送り候其儘ニ写置」のもの。王政復古・小御所会議(徳川慶喜の辞官納地決定)の翌日一二月一〇日からの長州・薩摩軍と幕府・会津・桑名軍の動向。正月三日一橋慶喜大坂表より上洛決定、幕軍先鋒が淀・伏見辺でこれをはばむ長州藩兵と合戦になり、いわゆる鳥羽伏見の戦によって戊辰戦争の内乱期に入ったようす。「大合戦死人山の如く」になり、また大坂城から慶喜はじめ幕府要人退散し、「京地風聞ニは異国ぇ落候様申居候」という記録。旧京都守護職会津藩主松平容保ら一三人の幕府側要職にあった大名が朝敵とされたことなど、慶応四年正月の写し。
(以上『続徳川実紀』・『昔夢会筆記』・『徳川慶喜公伝』・『維新史料綱要』・『近代日本総合年表』など参照)
このように、個別事件ごとの断片的な記録類だが、とおしてみると、安政六年の外国交易開始(九)、安政の大獄(十)の頃からの記録には、幕末の重要な政治変動のほとんどがふくまれていることがわかる。とくに文久年間からのものは、朝幕関係のやりとりのなかに、幕府の無能ぶりと政治的権威の失墜、朝廷の権威の上昇のさまがよみとれる。さらに尊王攘夷派の動き、八月一八日政変後の公武合体派挽回のようす、下関戦争・征長戦争などを経過して、さいごの鳥羽伏見の戦における幕府方の敗北のようすから「朝敵」とされた大名の名を列記するまで、村人の心のなかに刻みこまれていたであろう幕末史を、そのままみる思いがする。