C 政治情報と村人の反応

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 これら幕末の諸変動にたいする村人の直接の発言は、まったくといってよいほど記されてはいない。しいていえば(九)の横浜開港についてよんだ交易批判の俳諧連歌や、(二七)の将軍家茂相続にかんする記事の裏表紙にしるされた歌などがそれにあたるであろうか。間接的ではあるが、村人が個別断片的な記録を写しつづけている背後でいだいていたであろう政治批判のあらわれとみることができよう。(二七)の歌は、とくになにを譬えにしてうたったものか、政治批判の意図を直接よみとるのはむずかしいが、一は、迷う迷うといってはいるが偽りではないのか、その証拠に「君」は少しの間でも眠っているではないか、といい、二では今自分たちが見たいと思って見ていたものをおしかくそうとする性根は、すべてをかくしてしまう春がすみと同じだ、ということか。三は、たいへん待ちこがれていることがあって宵も夜中も待っていたが、まだ現われてこないから、夢にでも見ようかとちょっと眠ってみた、とうたい、四は、今自分たちが手にいれたいと思っていることを確実にしたいならば泊りこんででも貫くべきである、という意であろうか。
 こうした歌を、一~二ケ月前の第二次征長戦争における幕府の敗色濃厚なようすをすでに知ったうえで、将軍の重病・継嗣問題の記録につづけてかきこんでいるのである。これらの歌の背後に、幕藩制崩壊過程の急速な進行のなかで、政治のもつ偽わりをつき、自分たちの求めているものを隠蔽しようとする意図を見据え、真に待望するものを確実に実現する途を見さだめようとする、一種の政治意識の潜在していたことを読みとるのは、かならずしも不当ではあるまい。少くとも藤村の言葉をかりれば、「徳川の世も末になった」ことが、かなりのていどまではっきりと、昭島の村人の意識にものぼっていた、といえるであろう。