第Ⅰ型は、まず、情報の中味それじたいが領主支配層の手になる公的なもので、もっとも数が多い。公的な情報がそのまま、代官所あるいは関東取締出役など地方支配機構によって、組合村をとおして強制的におろされ伝達されてくる、純粋に支配的な情報である。(五)の大塩平八郎人相書などがその典型である。これに、村方庶民層の反応のしかたや意識のありかたをよみとることはむずかしいが、少なくとも、大坂でお上(かみ)に手向う容易ならざる事件がおき解決が長びいていることを村人が知ったという事実はまぎれもない。
第Ⅱ型は、情報そのものが本来支配側だけにとどむべきもので、公式には村方に伝えられるべきでないにもかかわらず、何らかの非公式ルートをとおして私的に伝えられてくるばあいである。昭島では、この型がもっとも多いが、やはり村方庶民層の反応を直接に知ることはむずかしい。(二七)のように間接的な形であれ、何らかの反応が記されているばあいはまれである。しかし幕藩制封建社会の支配的な考え方では、庶民は「由(倚)らしむべし、知らしむべからず」であったのとくらべてみれば、幕末の政治変動について幕府に不利な情報もふくめてかなり正確に村方が知っていたことは、村人の意識のなかで、幕藩制社会の正統像がいかに深くまでくずれつつあったかを示しているであろう。
第Ⅲ型は、情報源も情報ルートも私的で、庶民の直接の反応によって生れたものである。昭島のばあいでいえば、在方商人的な性格のつよい豪農層と親しい、商人のルートによるものがおおかった。たとえば(十五)の「伊勢惣」という屋号の商人にあてて上方から伝えられてきた八月一七日政変の情報や、(十九)の禁門の変の情報、(二九)の鳥羽伏見の『合戦書』などがそれである。そのなかにはかならず庶民の眼・耳でなければとまらないような情報がふくまれている。
たとえば(十五)では「男子ハ手当人足ニ召取れ大難儀困入候旨、夫故(それゆえ)金相場も上直段ニ御座候、誠ニ此度は当地も安心不二相成一心配罷在(まかりあり)候」などとあり、末尾には、八月二八日付発送の後「大坂より正六日限ニて参り、江戸表九月三日昼八ッ時ニ着仕候」と、おそらく町飛脚によったのであろう六日間で江戸に届いていることなども記されている。さらに江戸から近在の在方商人のルートをへて昭島地域にとどいたものであろう。
(十九)のばあいでは前掲のとおり、「実以戦国之模様」とうけとられて「渡世等も手ニ付不レ申候」と、内乱状態で商売も手につかない商人の不安ぶりがつたえられている。(二九)では、第Ⅲ型のもっとも典型的なものであろうか、さらに徹底した庶民の眼が幕府の最期の姿をつぎのように見つめている(以下史料編一六八参照)。
九日ニ相成、大坂御城ニは一橋様(慶喜)を始、会津・桑名其外公儀附之御人数居不レ申、何方(いずかた)へ引取候哉一円相分不レ申候。京地風聞ニは、異国え落候様申居候、尤(もつとも)異人大坂に此間中多分居候得共此節少も、京都ニては会津・桑名を朝敵と被二仰出一、尾・越二藩之者え将軍職被仰付候得ども、是又会津・桑名承知なく、依て御請も難一出来二、只今は仁和寺宮様を将軍職と号し奉り、
前半では、慶応三年一二月九日王政復古令の後、大阪城にもどって勢力挽回策をすすめつつあった前将軍徳川慶喜をはじめ、会津藩主松平容保など幕府方要職の大名たちが、一月三日の鳥羽伏見の敗戦後、大阪城をからっぽにしてそろって行方知れずとなり、異国へ落ちのびたという風聞がひろまっている、というのである。(章末の補註(1)参照)事実は、一月六日慶喜らがひそかに大阪城をぬけだし、大阪湾から幕府軍艦開陽にのって江戸へ逃走したのである。これを上方町民が皮肉にも「異国え落候」と言っていたことについては、それなりの根拠があった。
幕府は、すでに将軍家茂の元治元(一八六四)年頃から、フランスに軍事・産業面で揺助を求めていた。慶喜の代には、さらにフランスから軍事教官団を招いて幕府軍の洋式化による強化をはかっていた。フランス公使ロッシュも、幕府に長州征伐をすすめる意見を主張するなど内政干渉の動きをとりはじめていた。幕府政権の対フランス従属がすすんでいたのである(フランスの動きについては、洞富雄『幕末維新期の外圧と抵抗』参照)。
とくに慶喜は王政復古令後、薩長勢力に対する挽回のために、幕府軍とともにフランス軍事教官団を上阪させていた。国内の政争に外国軍人の力をかりるということは、対外従属の態度をいっそう強めることであった。さきの風聞のうらづけとして、この期間中大阪にたくさんいた異人が慶喜らの逃走とともに姿をけした、といっているのは、おそらく庶民の眼に幕府のこうした態度がすっかり曝露されていたことを物語っているであろう。そのうえ一月六日夜ひそかに大阪城をぬけだした慶喜らは、大坂湾上に停泊中の開陽艦をすぐみつけることができず、一時はアメリカ軍艦に避難させてもらっていた(『昔夢会筆記』・『徳川慶喜公伝』)。
こうした旧幕府の対外従属姿勢への庶民の批判が、開国以来いくえにもつみかさなって、ついに慶喜が敗北・逃走して異国へ落ちのびたという、旧体制にたいする民族的危機感をともなったきびしい批判の風聞となってひろまっていたのであろう。大阪では一月八日(新暦二月一日)には、フランス兵が群集から投石をうけて発砲、八~九人を殺害する事件がおきている(アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』)。それだけに、上方庶民連の慶喜と外国人への反感には、はげしいものがこもっていたことであろう。
慶喜がすでに将軍職を失ったうえ、行方知らずとなって異国へ落ちのびたという風聞を知った江戸町民の衝撃は、どのようなものであったろうか。また幕府・旗本・代官の支配をうけ、おなじ天然理心流を習得した門人仲間・俳人仲間を新選組など松平容保指揮下で上方におくりこんでいた多摩郡の豪農商たちの衝撃もいかばかりであったか想像にあまりある。さすがに「まさか幕府が倒れようとは」(『夜明け前』)という信じがたい思いが強かったのか、あるいは逆に、「徳川の世も末になった」予感があまりにも正確な結末におわったことを記すのに公辺筋をはばかったのか、この記録は、「右京地之一件、同所詰居候方より書記送り候其儘に写置」ということわりの一条を、最末尾にそえて結ばれている。
慶応四年正月『合戦書』写(指田萬吉家所蔵)