中神町に残る中野久次郎家長屋門
嘉永六(一八五三)年六月、四隻の艦隊を率いたアメリカ東インド艦隊司令官ペリーが、突如浦賀に入港した。ここで突如と書いたが、その前年にはオランダから、アメリカ艦隊の日本遠征があることを幕府は知らされていた。にもかかわらず、幕府は有効な対策をたてることをおこたっていたのであった。
ペリーは、艦隊の武力を背景に、日本の開国を要求した。幕府は、ペリーの持参したアメリカ大統領から日本国皇帝(将軍をさす)あての国書を受理させられてしまった。そして、翌年再び来航したペリーは、ついに、下田・箱館両港へのアメリカ船寄港、下田に領事をおくことなどを認めた日米和親条約の締結に成功した。ペリーのあとを受けたアメリカ総領事ハリスは、安政五(一八五八)年六月、幕府とのあいだで日米修好通商条約を締結し、両国は正式な通商関係をもつにいたった。その後、これに類似した条約が、幕府とヨーロッパ諸国の間に結ばれ、日本は長い間つづけていた鎖国制を破棄させられたのである。
周知のように、この安政の条約は、(一)領事裁判権-治外法権を認めていること、(二)関税自主権が認められていないことと、(三)一方的な最恵国待遇が存在することなどを含む不平等条約であった。また居留地=租界が設定されており、日本は半植民地化の危機にさらされたのである。
開港は、自国内で自給自足していた日本の経済機構を破壊した。日本の生産物の前に、世界という巨大な市場が出現した。逆からみれば、世界の商品が日本という市場に流入してくることになる。とくにその商品は、資本主義的生産機構から生まれる、均質・安価・良質なものである。日本の商品は、この資本主義の産物にたちうちしうるはずがなかった。その結果、従来の日本の産業構造は、根底から揺さぶられていくのである。