二 開港と養蚕、製糸業

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 各国との通商条約にもとづいて、横浜・長崎・箱館の三港が開かれ、交易が開始されたのは、安政六(一八五九)年六月であった。外国との交易に不馴なこともあって、いくたの混乱が生じたが、それにもかかわらず貿易は発展していった。この交易の大半は横浜でおこなわれている。輸入品は綿・毛織物や艦船・銃砲などの武器などであり、輸出品は生糸・茶などの農産物である。とくに生糸は、輸出総額の七~八割を占め、輸出の花形としての地位をきづいていた。
 輸出は、輸送機関を外国人に独占されていることもあって、相手国に商品を直接送り込むのではなく、開港場の外国商人へ現品を持ち込み売るという形態をとった。また、彼我の資本力の相違、品質の不均等性、交易慣習を熟知しないことなどもあいまって、交易は外国商人の主導下におかれていた。外国商人は、日本商品をおもう存分に買いたたいた。たとえば、開港当初の生糸の価格は、ヨーロッパの相場の四割程度であったという。このような不利な条件にもかかわらず、値段は上昇しつづけていたので、横浜向け生糸生産は順調な発展をとげていた。各地から横浜へ向けて、生糸が集積し、街道はあたかも「絹の道」とでもいうべきものとなったのである。
 昭島市域は、八王子絹織物業地域として発展をとげてきた村々によって構成されているのだから、開港の影響を直接的にこうむった。まず養蚕・製糸業の状況からみてみよう。前頁の表は、明治初年の諸村「物産書上げ」から作成したものである。

明治初年昭島市域村々の生産状況

 表に示された数値は、実際の収獲量を示すものとは考えにくい。なぜならば、村々はひかえめに書き上げることを常とするからである。たとえば、上川原村には開港直前の安政五年の繭生産量の記録があり、それでは四二五枚(生糸にして二三貫三七五匁)が生産されていたとしている(指田万吉家文書)。にもかかわらず、明治五年には、わげかに生糸七貫五〇〇匁しか生産されていないとされている。生糸生産が発展に向かう傾向があったこの期に、このような大量減少があったとは考えにくい。同様なことは、田中村における明治五(一八七二)年と同一〇(一八七七)年の差についてもいえよう。だが、比率から全体的傾向を見ることはできるだろう。
 養蚕・製糸業が村落の諸産業に占める位置を確認するにふさわしいのは、明治一〇年の田中村である。この史料には、諸産物の評価額が記述されている。それによると、村の諸生産物全体の評価額二一九九円八五銭のうち、養蚕・製糸業は、一一八五円あり、全体の五四パーセントに達している。
 つぎに、養蚕・製糸業の分業がかなり進んでいたことが確認される。すなわち、蚕種・繭・生糸および桑の各段階で販売されていることがわかる。田中村の場合は、蚕種・繭・桑の段階で売り出されている。
 織物業の衰退もみることができよう。中神・田中の両村は、織物生産の記載がない。拝島・上川原・大神は、まだ織物生産をつづけているが、かってのように織物業中心の村落とはみなしがたいのである。

開港後の上川原村

 この養蚕・製糸業の発展は、村人の生活をどのようにかえたであろうか。村々は活気づいていた。それはなによりも村民数の増大に示される。前頁の表は幕末期における上川原村の農民戸数・人口数を示したものである。開港直前の安政二(一八五五)年に比して、慶応四(一八六八)年には、経営数で二軒、人口は三一人もふえている。特に人口数の伸びはいちじるしい。
 人口増加は、子供を産む余裕が存在したことと、他村奉公などによって余剰人口を流出させる必要がなくなった結果である。特に後者の問題をいいかえれば、自村内での労働の機会がふえたことを示している。下層農民はわずかばかりの農地に桑を植え、養蚕を営むとともに、糸を賃引したり、運搬したり、あるいはその他の日雇・雑業に従事して、生計をたてていけたのである。
 昭島市域に住んでいた人々のなかには、横浜交易に積極的に進出していくものもいた。三章四節でみた指田七郎右衛門は、その代表的存在であろう。彼は横浜商人への仲買活動に従事し、遠く甲州国中地方(山梨県甲府盆地)にまで糸を買いつけにあるいている。そして彼の糸買付け額は、一回に七二九両余、生糸にして七三貫三三四匁という莫大なものにのぼっていた。七郎右衛門の商業活動は、すべて彼独自の資金によって営まれたものではなく、彼の糸を集荷する横浜商人からかりたものが多かったであろう。その点をさし引くにしても、個人的才覚に依拠して、開港を好機としてとらえた上層農民の一典型をここにみることができる(詳細は三章四節参照)。
 この指田家と反対の道をたどったのが、中神村の中野家である。中野家は、縞仲買商として巨大な富をたくわえていた。開港によって生糸が直接横浜に流れていった結果、織物用の生糸が急速に減少し、糸値も高くなった。それは織物業を衰退させずにおかない。中野家の地元中神村においてさえ、満足な織物生産がなされていないことは先にみたとうりである。織物業の衰退は、この産業に依存して発展してきた中野家を危機に追い込んでいった。中野家は、この状況を打開するために種々の努力をしたが、打こわしや当主のあいつぐ死亡などという不幸もかさなり、ついに明治八年には倒産のうきめをみたのであった(三章四節参照)。
 このように開港は、人々のおかれた条件によって多様な影響を与えていった。だが開港の与えた経済的影響は、これにとどまらなかった。開港以降、異常な物価上昇が生じるのである。それは現代日本の物価上昇に、まさるとも劣らないものであった。