このように物価騰貴に苦しむ人々のうえに、追いうちをかけるように諸負担がかけられてきた。幕末政争にともなう臨時課役や幕府の流通統制策がそれである。前者については次節で検討することとし、ここでは幕府による生糸流通統制策を簡単にみておこう。
開港にともなう経済変動に対して、幕府が本格的な統制を試みた最初は、万延元(一八六〇)年閏三月に出した五品江戸廻令である。この五品とは、雑穀・水油・蝋・呉服・生糸をさし、いづれも輸出品として横浜に流れていったものである。この法令は、その名称が示すように、「五品」を江戸に集中させ、江戸商人の手によって横浜交易場に売り出すというのである。
幕府はこの政策によって、幕府と密接な関係をもつ江戸商人の手に横浜交易の主導権を掌握させること、また弱まっていた彼らの市場支配を復活させることを意図し、さらには江戸の物価をさげさせようとしたのである。だが生糸に関しては、まったく実効をあげえなかったのである。
そこで幕府は、慶応二(一八六六)年正月に、新たに生糸蚕種改印令を出してきた。この法令は、全国各地に改会所をつくり、商品とする生糸・蚕種は、会所の改印を必要とするというのである。この改印のたびごとに手数料をとったことはいうまでもない。法令は、幕領・旗本領のみならず全国の藩領にも適用されている。
五品江戸廻令に失敗した幕府は、生産地において流通統制を試みたわけであり、また改印手数料の莫大な上がりを期待したのである。この法令が施行されれば、手数料を払わなければならないし、自由な流通がなしえなくなる。養蚕・製糸業にたずさわる多くの人々は、この政策に猛然と反対した。
昭島市周辺では、八王子に改会所が設置され、五月から運営をはじめている。慶応二年五月とは、武州世直し一揆が発生した時期である。一揆は八王子の改会所をめざして進んでいる。あきらかに、一揆発生の要因の一つに、この生糸蚕種改会所設置政策があったのである(史料編八九参照)。
ここでも再び、武州世直し一揆に直面した。幕末の諸問題は、すべてこの一揆に集約されていくといっても過言ではないだろう。そこでこの一揆を説明する必要があるが、その前に、幕末の社会状況をもう少しのぞいておこう。まず第一に、幕末の政争とそれに伴う諸課役の増大についてみてみたい。