開港が与えた影響は、前節に見た経済変動だけにとどまらなかった。欧米資本主義列強の圧力に幕府が譲歩を余儀なくされたことに、人々は幕府の戚信の低下を見た。さらに開港は、武士たちの素朴で狂信的な排外「民族」意識を剌激した。そして、開港にともなって生じた政治的混乱を、幕府の強権で解決しようとした大老井伊直弼の「安政の大獄」と、その井伊自身が暗殺された「桜田門外の変」は、幕末の政治を一挙に混乱におとし入れた。
その後、尊攘派・佐幕派・公武合体派・倒幕派などの諸勢力により、血で血を洗う激しい政治闘争が展開したことはよく知られている。しかもこの政治闘争は、江戸・京都という政治都市のみではなく、各地に生じた。そして、たんに武士階級のみが参加したのではなく、地方の上層農民達が、「草莽の志士」として、積極的に政治参加をしていったことが知られている。ところでこの幕末の政策は、幸か不幸か昭島市域を直接の舞台としてあらそわれることはなかった。また、昭島市域に住んでいた農民から、尊攘派・佐幕派をとわず、いわゆる「志士」を生み出しはしなかった。だからといって、昭島市域に住んでいた人々が、激動する政治に無関心であったというわけではなかった。前章で見たように、昭島市域には、この期の政争の記録が多くのこっている。それは、記録の筆者達がこれらの政争に関心をもち、見まもっていたことを意味しているであろう。
さらに政争は、大きな社会的「混乱」をひきおこした。また政争は、多大な人員と経費を必要とした。これらの幕末政争によって生じた間接的影響は、昭島市域の人々にふりかかり、彼らの生活に多大な損害を与えていくのである。本節はこの点をみていくのであるが、(一)農民の諸負担、(二)治安悪化による被害、(三)幕末の助郷の三点に焦点をあててみていきたい。