A 政争などに併う負担増

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 拝島の清水貞男家に残された慶応三(一八六七)年「御組合割合勘定写」は、幕末期の村々がしいられた負担増を示すにふさわしい史料である。この史料から諸経費をまとめたのが右の表である。ところでこの史料は、組合村経費のすべてを示しているとは考えにくい。なぜならば、日常的に使う費用、たとえば筆墨代などがまったく見あたらないからである。また、この経費が幕領の村々にのみにわりあてられていることも、理由に加えることができる。

 

 このような限界をもつにもかかわらず、史料は幕末期の特徴をよく示している。史料に見える諸経費は、五つに大別しうるであろう。(一)前年度の不足分、(二)囚人の留置あるいは逮捕等の経費、(三)兵賦金、(四)農兵費用、(五)その他である。このうち、(二)から(四)は、幕末期独特のものか、あるいは幕末にいたって急激に増大したと推測されるものである。以下この大別した項目を少し説明しておこう。
 まず(二)の項目であるが、政争の激化が、必然的に治安維持活動の低下となってあらわれ、犯罪数の増加をもたらし、村々の負担増となった。この治安維持の低下がもたらした問題は、後に詳述することにする。
 (三)・(四)の兵賦・農兵は、文久の兵制改革によって生まれた、いわゆる「農民兵」をさしている。この兵制改革については、本章三節で叙述することにしたい。ただここでは、その負担額がかなり大きかったことをみておこう。幕長戦争にともない東海道川崎宿の増助郷を命じられた田中・大神・上川原の三村は、助郷役免除を要求してたびたび訴状を提出した。そのうちの一つである慶応二年四月の訴状には、「品々困窮難渋差支え廉々」の一つとして農兵の負担をとりあげ、助郷役免除要求の理由としている。このことからも、農兵・兵賦が農民の負担となっていたことが知れる。
 この他にも、幕末期には御用金などの形で多くの臨時課役がかけられている。たとえば、安政四年に拝島村名主甚五右衛門は、芝新銭座大小砲調練場建設の経費として、一〇〇両の御用金を上納している(島田タダ家文書)。あるいは、慶応二年一〇月には、幕長戦争の軍費が村々の富有層にかけられ、拝島村組合二一ケ村で三七五両を上納している。このような事例が数多くみられるのである。
 この幕末の臨時課役についても、幕領地より旗本知行地のほうがきびしかった。幕末の政争は、旗本の出費を増大させたが、窮乏する彼らはそれを払いえず、知行地農民に負担転嫁してきたからである。その例として、大神村の領主であった土岐左近をとりあげてみよう。
 土岐左近は、文久二、三(一八六二、三)年と元治元(一八六四)年の三年連続して京・大坂に上っている。この負担はなみたいていのものではなかった。さらに元治元年九月には、新しい役に就任し、そのための経費も必要とした。財政窮乏の例にもれない土岐は、これらの負担にたえきれず、知行地農民に転嫁してきた。
 中村保夫家に残こされていた『元治元年六月御地頭所御用向』という史料によれば、文久二年から慶応三年までの六年間で四三六両余も臨時課役があった。元治元年における土岐の総収納額が五三一両余であるから、その大きさがわかるであろう。とくに、そのうちの二六一両は、元治元年一ヶ年間に納入させられたものであることに留意しなければならない。
 しかし、この四三六両という金額は、かなりうちわにみつもった上での額である。そのように考える理由は二つある。文久三年暮から元治元年六月にかけての旗本上坂に関して、(一)餞別金、(二)留守中見舞、(三)夫人足、(四)上京御供の四項目の負担をしている。それに対し文久二年暮からの場合は餞別金だけであり、元治元年一一月からについては一切記述がない。この二つの上洛についても、前者と同様な負担があったとみるべきであろう。
 第二は、夫人足・上京御供という形で、労働力を直接提供しなければならなかったことをとりあげたい。とくに「上京御供」は、見知らぬ京の地で、旗本の雑用をしなければならなかったのであり、その苦労は並大抵のものではなかったろう。賃銭は払われているが、わりにあわなかったことはいうまでもない。この「上京御供」をした人々は、すべて大神村の人である。
 「夫人足」とは、旗本留守中の家族を雑用をすることを仕事としたらしい。各村もちまわりで平均一五日ほど勤めている。賃銭は、一日銀二匁~三匁であり、村から江戸への往復費用は払われていない。(以上土岐の幕末臨時課役等については史料編一五五参照)