さらに食いつめ浪人達も重大な問題となってきた。彼らは農村を徘徊し、宿を請うたり金を無心して歩いた。少し時代が下るが、明治四(一八七一)年に田中村へやってきて、無心をした浪人の数と施金の額を確認できる。それを月別にまとめたのが左の表である。
田中村浪人入用(明治4年)
この浪人に対する経費が、年間二〇貫文近く必要だったという金銭的な問題も無視することはできない。しかしより重要なことは、のべ一八三人にものぼる浪人が来て無心したという行為そのものにあろう。村役人達は、乞われるまま金を出し、村からの退去をもとめざるを得なかった。そうしなければ、食いつめ浪人達は、どのような行為をとるかしれなかったからである。
浪人達のなかには「志士」をきどり、政治活動の資金調達だと称して、豪農・村役人から金を奪いとっていったものもいた。その中には、本当に「志士」活動をしていたものもあろうし、なかには偽「志士」もあったであろう。だが金を無心・強奪される側にとっては、同じことである。
中神村の中野家は、江戸でも広く知られた縞仲買であり、近郷随一の資産家であったから、いわゆる「志士」達の恰好の目標となった。たとえば、慶応三(一八六七)年二月、忠誠隊青旗組と称するものから武・相両州の豪農へ金を無心する書状が送付された。宮下村の荻島源兵衛・五日市の内山安兵衛らとともに、中野久次郎も献金すべき豪農として名ざしされていた。この忠誠隊青旗組なるものが、どのような政治系統に属するのかは不明である。ただ豪農から資金を献出させる目的は、「万民窮迫日々弥増、竹根木皮ニ露命詰候」という現状を回復するためだと称している。彼らは豪農達が、八王子宿千人町裏の多賀明神社会に三〇両以上の金を埋めることを求めていた。豪農達にとどこおりなく献金させるために、「万一疑念を生し延引等致し候ハゝ、放火之上兵器を以多人数差向」と強迫することは忘れていない(史料編一六二)。だが、金を埋めさせるなど、あまりに杜撰な計画であり、久次郎ら豪農は、その指示に従わなかったように思われる。
つづいて明治二年九月には、旧幕臣塚越大蔵少輔末子藤三郎と称するものが来て、二〇両の金札を詐取されている。旧幕臣塚越と称した人間は、同志一〇〇人で駿州から日光へ向い、そこで切腹したいとのべ、その為の路用と家族扶助費用を無心した。中野久次郎がこの話を完全に信用したとは思われないが、「強而(しいて)相断候而者、後日多人数押参り如何様之暴行可レ及も難レ斗」という懸念から、二〇両の金札をわたしている(史料編一六七)。
このように、村々の治安状況はきわめて悪化していた。生活を安定させるためには、村落の治安を再建しなくてはならない。しかも幕府がそれをはたせないとすれば、自らの力でなしとげなくてはならない。このことから豪農層を中心として、村落を自衛しようとする気運が生まれてくることになる。この動きについては、節をあらためて、本章三節で考えていくことにしよう。