C 幕末政争にともなう助郷役負担

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 幕末・維新期において、昭島市域の村々に多大な影響を与えたものの一つに、助郷役負担があった。幕末の政争は、人々の往来を激しくした。大きな問題をとりあげても、(一)和宮降家、(二)参勤交代制改正に伴なう大名妻子の帰国、(以上文久二年)(三)二次にわたる幕長戦争(いわゆる長州征伐をさす、元治元年から慶応二年)(四)戊辰内乱にともなう東征軍の進軍などがある。このような交通量の増大は、街道筋を混乱させ、宿場や助郷村を疲弊させた。
 昭島市域には日光道が通っている。これは脇往還ではあるが、そこにも多数の人々が往来し、拝島村宿場の伝馬が頻繁に使用された。また昭島市域東半分の村々(中神・郷地・筑地・福島・宮沢)は、甲州街道日野宿の助郷をつとめていたから、その負担はかなり重かったと推測される。残念なことに、東半分の村々がつとめた助郷役負担については、まとまった史料が残されていない。そこで、以下西半分の村々(拝島・田中・大神・上川原)についてのみ、みていきたいと思う。
 関東地方で幕末の助郷役をみる場合、普通和宮降家から論じられる。それは前代未聞の大行列であり、それだけに助郷村を疲弊させたからである。だが幸いなことに、昭島市域西半分の村々は、一度は助郷役が賦課されたのであるが、難渋を訴えでて、助郷役からはずされている(史料編一四九参照)。
 第一次幕長戦争は、元治元(一八六四)年八月、将軍が諸侯に長州藩征討を命じたことからはじまった。この年の九月には、村柄の書き上げが命ぜられ、一〇月に入ると、甲州街道内藤新宿(現新宿区新宿)への助郷役が賦課された。おどろいた村々は、さっそく助郷役免除を求める訴状を提出した。このうち、田中・大神両村から出された訴状をみてみよう(史料編一四七)。
 訴状によれば、助郷役免除を求める理由は次の六点であった。
(一) 脇往還日光道拝島宿の助郷を勤めていること。この日光道は、近来諸役人の通行が激しく、村々が疲弊していること。
(二) 拝島の助郷役を勤めているが故に、天保一四(一八四三)年の将軍日光社参の時も、助郷役を免除されたという先例があること。
(三) 尾州鷹場の御用を勤めていること。
(四) 玉川上ケ鮎の御用を勤めていること。
(五) 玉川洪水によって、多くの損地がある困窮の村であること。
(六) とくに私領分(旗本知行地)では、文久二年より地頭所へ定詰人足を出しており、困窮の要因となっていること。
 村々がこのような訴状を提出している間に、今度は東海道川崎宿への増助郷が命じられたのである。しかも、前の訴状に対し、幕吏が村柄検分のためにまわってきた。村人たちは、この状況のなかで東奔西走させられたのであった。
 この第一次幕長戦争は、四ケ国連合艦隊の下関攻撃とほとんど同時に展開した。幕府と外国の双方との対決をせまられた長州藩は、苦況にたたされ、恭順の意を示すことによって、本格的な戦争にならずにおわった。予定されていた将軍の上坂も行なわれなかったので、この年の増助郷は、つとめなくてすんだのである。しかし、先に見た村柄検分費用や内藤新宿・川崎両宿への村役人の出張費用、あるいは訴訟費用などはすべて村の負担となった。
 このように、一度は解決したかにみえた幕長間の対立は、慶応元年正月ごろから再び険悪となっていった。すなわち、幕府への恭順に反対する長州藩士高杉晋作らは、奇兵隊などの諸隊を率いて決起し、長州藩を内乱にもちこんだ。そしてついに俗論党=恭順派の藩政府を転履し、藩論を対幕武力対決へと導いたのである。幕府は、再度の長州藩征討を決意した。先の第一次幕長戦争のときは、鷹揚に構えて江戸から出なかった将軍であるが、この時は、幕軍内部の不統一もあり、また朝廷からの催促もあって、早々に江戸を立ち上洛したのである。
 将軍の出陣となれば、その軍列の数はおびただしいものにのぼる。東海道川崎宿において必要とした人夫役をまとめたのが左記の表である。軍列は五月五日から閏五月二日までつづき、必要とした人足はのべ二七九七二人、馬匹数一一六四疋に達する。さらにこの後に、「玉薬」(鉄砲玉と火薬)などの「御用物」九八五棹がつづいた。それに必要とした人足六八八〇人にのぼっている。

慶応元年 将軍「進発」に付人夫役(川崎宿)

 昭島市域西半分の村々は、この川崎宿の増助郷を命ぜられた。この助郷村が分担した数を次頁の表にしてみた。表にあらわれた村々の人足数を合計しても、先にみた惣人足数の二六・四パーセントでしかない。ということは、この史料は、助郷村の一部を示したものにすぎないことがわかる。また大神村は、「御用物」の人足が割りあてられていないが管見したかぎりの史料ではその理由はわからない。

慶応元年5月川崎宿増助郷人足村割

 この当時、上川原村の百姓経営数は二七軒である。それに対し七六名の人足役がかせられたのだから、一軒あたり約三名の人足を出さねばならない。この一例からみても、この助郷役が過酷なものであったことがわかるであろう。もっとも、増助郷を命ぜられた村々の多くは、人足を出して助郷役を勤めたのではなく、川崎宿で人足をやとい、その代金を支払う方式をとっている。雇人足の賃銭は、一人一里あたり五〇〇文である。五月五日から閏五月二日迄の間に、大神・田中・上川原三ケ村でのべ人足二七三人の雇銭として、銭三四一貫二四八文がわりふられている。金に直すと、五〇両三分二朱と銭三八四文になる。かなりの金額であった。
 だが助郷役はこの年だけでおわらなかった。第二次幕長戦争が本格化したのは、慶応二年六月になってからである。この時までの間に、江戸と上方の間で、多くの幕府軍が往来した。この御用人馬に対しても、昭島市域の村々は、東海道川崎宿の増助郷を命じられた。
 もとより、村々はこの過酷な助郷負担を、唯々諾々と従がっていたわけではない。助郷負担を少しでも軽くするために闘っていた。それは一揆のような激しいものではなかったが、執拗に訴願をくり返していくのである。
 まず拝島村の場合をみてみよう。拝島村は、小さいながら日光道の宿の体裁をとっていた。それゆえに他の村々(定助郷として田中・大神・上川原の三ケ村、大助郷として熊川村等一三ケ村)に助郷を求めることはあっても、自分達が助郷に出たことはなかっただけに、そのおどろきは一通りのものではなかったと推察される。
 慶応元年六月、拝島村役人惣代として名主甚五右衛門は、道中奉行に訴状を提出した。この訴状において甚五右衛門は、宿場としての拝島の特殊性を強調し、川崎宿への助郷免除を要求している。すなわち拝島村は(一)日光火之番へ向う八王子千人同心の通路となっていること、(二)中山道から東海道へ、中山道から内藤新宿へ向う間道であること、(三)玉川上水羽村陣屋へ向う道筋にあたっていること、以上の三点から、役人等の通行がかなり多い宿であるというのである。それゆえに、「古来より何様之大御用ニ而茂、他宿助郷等相勤候義ハ一切無之」村であることを強調している。それだけではなく、助郷の村々が川崎宿増助郷を命じられて以来、拝島村の助郷に難題をつけて出なくなったので、「当節自宿御継立ニ茂差支居」状態であると主張した(史料編一四八)。
 この拝島村の要求を幕府も認めざるを得なかった。そこで増助郷役を完全に免除するのではなく、将軍の通行日とその前後一日づつは他の村々と平等に勤め、それ以外の日は増助郷役から免除することにしたのである。
 田中・上川原・大神の三ケ村は、共同行動をとって助郷役免除の訴訟にたちあがっていた。その行動はじつに執念深かった。慶応二年四月、三ケ村の村役人惣代として、大神村名主八郎右衛門が提出した訴状には、次のような一節がある。
  先達而(助郷役を)御免除被成下置候様奉歎願候処、先月十六日、願之趣者外村々害ニも相成候間、御免除之義者難御沙汰旨被仰渡…(中略)惣代共帰村、私共村々大小之百姓末々之もの共迄役人共より申聞候処、殊之外驚入、頻ニ御歎願奉申上呉候様挙而差逼り、村役人共ニおゐて難捨置、其侭ニいたし置候而者、人気治り方ニも相拘り、第一村々相続方ニ差障候ニ付、又候奉歎願候(史料編一五〇)
 この史料から、先に提出した訴状が三月一六日に拒否されると、すぐに新たな訴状提出にとりかかっていること、また助郷免除闘争の中核は、村役人の説得を拒否した一般農民層にあったことが知れる。しかも、村役人が農民の再訴状提出要求を拒否すれば、「人気治り方ニも相拘り」というように、不測の事能がおこりかねないと指摘していることは重要である。この訴状から一ケ月たつと、武州世直し一揆が発生するのだから、村々は一触即発の危機的状況にあったといえる。増助郷役負担は、この危機状況に火を投じかねないものであったから、負担免除を要求する村役人の態度は、真剣そのものだったと思われる。
 川崎宿への増助郷を命ぜられた村々の多数は、人足の雇賃銭を満足に払わなかった。慶応三年一一月、川崎宿役人惣代問屋正作と同宿定助郷村惣代の宮内村名主長右衛門が道中奉行に提出した訴状が、上川原の指田万吉家に残されている。田中・大神・上川原の三村は、「御印書御下ケ渡以来皆不勤罷在候子細承候処、御筋江伺中之由申居、皆不勤罷在候」の村にふくまれている。執拗な闘争をつづけた昭島市域三ヶ村は、慶応三年一一月にいたっても、まだ増助郷役を納得せず、雇賃銭を払っていなかったことが確認されるのである(史料編一五一)。
 この雇賃銭問題がどのように解決したのかはあきらかではない。この問題が長引いている間に、新たな助郷問題が発生した。すなわち、東征軍が鳥羽・伏見戦争の勝利の勢いをかって、怒濤のように江戸へ進軍してきたのである。
 三方から進軍してきた東征軍は、各軍の間の意志疎通がかならずしも充分ではなく、若干の指揮系統の混乱が生じた。助郷問題にもそのことはいえる。すなわち、昭島市域西半分の村々は、甲州街道日野宿助郷と東海道川崎・神奈川間助郷の両方が命ぜられたのである。これでは、村民に負担しきれないことは言うまでもないだろう。村役人達は、川崎や日野へ赴き、やっと半高づつ勤めということにさせたのである。
 この助郷にようした経費のうち、神奈川宿における明治二年三月から同三年三月(一八六九~七〇)の助郷勤諸経費は、拝島村の一六七両を筆頭に、大神五五両、田中二七両、上川原一八両、作目一〇両とならんでいる。これが半高づとめの金額であること、また慶応四=明治元年分が欠落していることを考えあわせると、幕長戦争とは比較にならぬほどの負担をおわされていることがわかる。
 新政府は、このような旧幕府以上の収奪者として、昭島市域の村民の前にあらわれたのである。それは維新政府のかかげる金看板「御一新」の内実を、人々にみせつけたことになる。武州・相州の農民達は、維新政府に対し簡単には屈服せず、不服従・抵抗を重ねていったが、それはこのような維新政府の本質、すなわち旧幕府とかわらぬ収奪者という側面をみぬいていたからにほかならない。そしてこの感情は、明治一〇年代の自由民権運動にひきつがれ、運動の一大拠点をつくり出していくのである。