一 幕府の兵制改革と江川農兵

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 幕藩制社会の解体は、社会構造の変化にともなう農民闘争の激化と欧米資本主義列強の対日侵略という両面で進行した。水戸藩主徳川斉昭のいうところの「内憂外患」である。この事態の進行は、ついに幕藩権力を直接ささえる、それゆえに国家機構の基軸ともいうべき、軍事・警察機能の変革さえ必要とするにいたったのである。
 抑圧された民衆が生活の改善をめざしてたちあがった一揆や打こわしは、年をおうにしたがって増加し、また激化の一途をたどるにいたった。とくに社会の解体が進行するにしたがい、幕府の直接的基盤である幕領や旗本領で多くなった。幕領や旗本領は散在しまた支配も入り組んでおり、強力な軍事・警察機能をもっていないことを特微とする。この幕領・旗本領・小大名領が入り組んでいる地域を非領国(ひりょうごく)地域と呼び、昭島市域もそれに属している。
 幕藩制解体期に発生した一揆は、この非領国地域において、支配領域の区別をのり越えて闘われた。これらの一揆を広域闘争と呼んでいるが、権力機構が脆弱なゆえに、容易なことでは鎮圧しえず、巨大な闘争へ発展する例が多かった。またこれらの地域は、日常的にも博徒らが横行し、治安がみだれがちであったこともみのがせない。これらが幕府の軍事・警察機構改革を行なわれざるをえない第一の要因である。
 幕府の軍事・警察機構改革の要因の第二は、欧米資本主義列強の対日侵略にある。ペリーにひきいられたアメリカ艦隊が、たった四隻の軍艦の力を示しただけで、幕府の祖法であり、幕藩制社会基本原理の一つである鎖国制を放棄させたことに象徴されるように、列強は、その優越した軍事力で日本を圧倒した。欧米諸国の近代的軍事力のまえに、幕府・諸藩の封建軍隊は無力にひとしかった。いちはやく軍備の洋式化を試みていた薩長両藩でさえ、薩英戦争・四ヶ国連合艦隊下関砲撃という両戦争において、完膚なきまでたたきつぶされたのである。欧米諸国に対抗しうる軍事力が要請された。だがそれは、軍備品を洋式化するなどという小手先の手段ではなしうるものでなく、軍事組織そのものの改革を必要としたのである。
 以上みてきた二つの要因によって、幕末の兵制改革がおこなわれた。しかしこの改革は、旗本・御家人たちだけでになえるものではなかった。三章四節でみたように極度に困窮し、永年の都市生活によって脆弱となっていた彼らは、新しい軍事・警察機構にとって桎梏でさえあった。新たな軍事・警察力をになうものとして、成長をとげてきた豪農層が求められた。この彼らをとり込む形で、幕末の兵制改革が展開するのであるが、それは、幕藩制社会基本原理の一つである兵農分離制を崩壊に導くものであった。