A 江川英竜の農兵論

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 幕藩制解体期における昭島市域の幕領を支配していた代官は、江川太郎左衛門である。代々太郎左衛門と称する江川家であるが、そのうちの一人太郎左衛門英竜(担庵と号す)は、幕末兵制改革の先駆者として知られている。彼は天保期における代表的洋学者渡辺崋山らと親交を結ぶなかで、進んだヨーロッパの軍事力を知り、兵制改革の必要性を早くから認識していた。また彼の代官陣屋が伊豆韮山にあり、海防上の要点である伊豆を支配していたことが、危機感を激しいものにしたのであろう。
 江川英竜の兵制改革論のなかで、最も注目される主張は農兵取立てである。では、この江川英竜の農兵論を簡単にみておこう(以下江川農兵に関する記述は『江川担庵全集』に依拠した。史料引用もすべて同書による)。
 江川英竜が農兵制を最初に主張したのは、天保一〇(一八三九)年五月である。時の老中水野忠邦の命をうけて、欧米諸国の対日侵略にそなえる為に、「御備場」などの江戸湾の防備状況を検分した彼は、その成果をいくつかの上書にまとめた。そのうちの一つに「伊豆国御備場之儀ニ付申上候書付」があるが、ここで農兵制を主張した。
 表題からも明白なように、この上書は下田港を中心とした伊豆の防備計画書である。彼は港湾を防備するためには、本来巨大な艦船を必要とするが、まったく見込がたたないので、次の三策のうちいづれかをとる必要があると説いた。
(一) しかるべき大名を下田港周辺に分封すること
(二) 三〇〇〇石以上の旗本一人を奉行としておき、八王子千人同心か伊賀者を彼に付属させ、周辺に居住させること
(三) 農兵取立て
 このうち最も好ましいのが第一策であり、農兵取立ては「手軽之見込」だというのである。江川英竜は農兵について次のように説明している。少しながいが引用しておこう。
  御手軽之見込を以申上候得は、農兵御用可然、農兵之儀は早急之御役には相立申間敷候得共、追々仕込立候ハゝ、随分御用立可申奉存候、左候ニハ定式之御手当には及ひ不申候得共、武術稽古入用丈は不下候ては迚も行届申間敷候間、大小御筒并御槍等は御貸渡之上、武術稽古場御取立、玉薬其外稽古道具夫々御仕立、出精仕候者えは、少々つゝも御褒美有之、格別上達仕候ものえは壱人扶持若は二人扶持つゝも被下(以下略)
 農兵はすぐに役立つものではないが、訓練をほどこせばひとかどの用に立つまでにはなる。農兵に月々の手当を与えることはないが、武器(鉄砲と鎗)は支給してやらなければいけない。訓練に熱心だったものや、特に技能が上達したものには、褒美や扶持を与え奨励する必要がある。このように江川は主張していた。
 さらに彼は嘉永二(一八四九)年五月にも上書を提出し、農兵取立てを提言した。この上書の背景には、同年四月、イギリスの測量船が下田にあらわれた事件がある。この時江川は、イギリス船に対し武威を示す必要から農民を足軽にしたて、彼らを率いてイギリス艦と折衝し、帰帆させた。イギリス船を大過なく追い返せたのは、自分がつれていった足軽に扮装させた農民の威しにあると信じた彼は、一層農兵取立ての必要性を痛感し、再度の上書をおこなったのである。
 この上書は大略つぎのようなものである。伊豆の警備は、江川代官や下田奉行とともに、周辺に位置する小田原藩が担当している。代官所や奉行所が行使しえる武力は少ないので、主力は藩兵である。ところが、これらの藩から下田までは距離もあり、山道であるから、出張してくるまで日時がかかりすぎる。一旦事ある時にまにあわないことが多い。そこでどうしても第一線を防備する軍隊が必要であり、それには代官所付属の農兵が適当である。
 これからもわかるように、江川英竜の農兵論は、対外的危機にそなえる封建軍隊の補助的役割をになうものであった。この後も江川は二度にわたり農兵取立てを提言するが、幕府担当者は容易には認めなかった。それはなにゆえであろうか。じつは江川も、幕政担当者が農兵を認めない理由を熟知していた。先の嘉永二年五月の上書には、つぎの一節がある。
  尤も百姓町人武芸不相成義ハ兼而御触茂有之候得共、外同役と違、私義ハ代々御代官被仰付韮山屋敷ニ住居罷在、最寄百姓共茂同様場所替茂無之、其村々ニ引続罷在永々支配請居候事故、中ニハ其誠実之もの茂相見候間猶更之義、既先祖大和宇野より召連候家来之もの私屋敷元旧知ニ連綿と住居罷在
 江川自身が認めているように、農兵制は「百姓町人武芸不相成」という幕府祖法に抵触する。これが支配階級である武士と、被支配階級である農・工・商を厳格に区分する兵農分離制をさすことはいうまでもない。幕政担当者達は、農兵制がそのまま農民のための軍隊となり、彼らの武力抵抗の拠点となる可能性をおそれたのであろう。また現実社会における一揆・打ちこわしの増大は、その可能性が充分あったことを示している。そこで江川は、彼が代々韮山に居住する代官であり、支配下の農民を熟知していることなどを例示して、彼の支配下にある限り、危惧する必要のないことを強調しなければならなかったのである。
 だが幕政担当者は、民衆の戦闘力を恐れていた。江川の再三にわたる要望にもかかわらず、容易には農兵設置を許可しなかった。そして、嘉永六(一八五三)年五月になり、下田港に限っての農兵設置をやっとのことで認めたのである。