先に英竜の要求を拒否した幕府が、なにゆえに英武の要求に従ったのであろうか。それは時代が降るとともに、本節冒頭でのべた二つの矛盾が激化し、保守的な幕政担当者でさえ大規模な兵制改革の展開なしに、現状を克服しえないことをさとらざるを得なかったからである。じつは江川農兵を許可する以前に、幕府自体が大量の農民兵をとり入れた兵制改革を展開していたのである。この改革を文久の兵制改革と呼んでいる。この文久の兵制改革の内容と意義について、井上清氏の著作『日本の軍国主義Ⅰ』によりながら簡単にまとめてみよう。
兵制改革は、文久元年五月、「軍制取調掛」が仕命され、翌年六月に彼らの手により「親衛常備軍編成之次第」が作成され、この案にそって本格的に展開した。彼らが作成した新軍制をまとめると上の表のようになる。
文久の兵制改革による幕府軍の構成
この軍隊構成の特微を簡単にみておこう。まず第一に、近代的=西洋的に歩・騎・砲の三兵構成になっていることが注目される。もちろん軍隊の主力は歩兵にあるが、その歩兵は主として「兵賦(へいふ)」によって調達されたことが第二の特微であろう。さらに、指揮官を除き、軍隊は「兵賦」と小普請御目見以下の御家人によってになわれていることが第三の特微点である。いいかえれば、旗本は新しく幕府軍の主力となるこの軍制から排除されたことになる。
財政的に窮乏し、惰弱な旗本には、新しい軍制をになえなかったのである。さらにつけくわえるならば、鉄砲は下級武士のもつものというような旗本の保守的態度が、彼らをこの軍制からはみ出させたといってよいだろう。
このような旗本にかわって、幕府陸軍の主力をになうにいたったのは、「兵賦」徴達の兵士であった。「兵賦」とは、旗本がその石高に応じて知行地農民から選抜して差し出した。年齢は一七歳から四五歳までときめられ、「丈高く強壮」な人間が求められた。ただし代金ですますことも認められていた。その場合は、この代金で幕府が兵を雇い入れるのである。慶応元(一八六五)年以降は、全国の幕領にもかせられるにいたった。
この「兵賦」は、幕藩体制の「軍役(ぐんやく)」が変型したものだとみることができる。封建制の社会では、家臣(この場合旗本)が主君(将軍)から封地を分与され、その代わり文武の役について奉仕するという関係をとりむすぶ。とくに一旦有事のときは、家臣はその家来をひきいて、主君の軍に参加しなくてはならない。これを「軍役」とよぶ。幕府はその人数をこまかく規定していた。三章でみたような財政が窮乏していた旗本は、譜代の家臣をやといきれなかったから、その代わりとして知行地の農民を出したと考えればよい。
このように「兵賦」は、幕藩制の軍役体系にもとづくものではあるが、またそれを否定する要素をもっている。軍役によって連れていかれた家臣にとっては、その主君はあくまでも旗本であった。すなわち、旗本の小軍団の結合体が幕府の軍隊なのである。だが「兵賦」調達の兵士は、個々の旗本の手をはなれ、幕府「歩兵組」に組織された幕府=将軍の直属軍団を構成する。
さらに、「兵賦」の金納が許され、慶応二(一八六六)年以降は、金納が原則とさえなることの意味も重大である。これは、幕府が「兵賦」=軍役という名目をかりて資金を調達し、その金で兵士を傭う、いわゆる傭兵制とみることも可能である。ヨーロッパの絶対王政は、傭兵からなる王の常備軍を、その権力をささえる一つの基盤としたが、「兵賦」にその性格をみることも可能であろう。
幕府直属の軍団が、このように農民らの被支配階級出身の兵士によってかためられるにいたって、なお農兵取立てをためらう必要はない。幕府は江川英武の要求に応じて、江川代官所管下の全村落で、農兵取立てを許可したのである。