まず兵賦についてである。兵賦負担の中心は旗本知行地であるが、昭島の旗木知行地から兵賦が出されたのか、あるいは金納したのか、現在まったくわかっていない。幕領の兵賦については、本章第一節でみたように拝島村組合全体での金納額がわかっている。慶応三年一年間の兵賦必要経費は、じつに一〇〇両分という多額なものであった(清水貞男家文書『御組合割合勘定写』)。
兵賦は農兵と異なり、江戸に集められ、幕府軍の主力となる。だから、農村に対してはほとんど恩恵をもたらさない。このような兵賦の必要経費として、一〇〇両余も負担させられたのだから、農民の苦しみはかなりのものであったろう。
次に農兵についてみてみよう。慶応元年二月二五日に、福生村十兵衛から拝島・上川原両村宛に次のような廻状がまわってきている。
明廿六日、農兵下稽古相始候間、本人当村に御遣し可レ被レ成候、尤遅刻不二相成一様御取斗可レ被レ下候(史料編一五六)
この書類から、すでに慶応元年二月には、農兵取立てがはじめられ、訓練をはじめるにいたっていることがわかる。福生村十兵衛は、拝島村組合の大惣代であり、彼を中心にして農兵が組織されたのであろう。ただこの時の訓練は「下稽古」と記されており、江川代官所の役人が参加しない、農民のみの訓練であったのかも知れない。
このように拝島村組合の農兵は、慶応元年には組織されていたのであるが、その実態を示す史料は、本市域には残存しない。そこで『立川市史』の記述から、農兵の実態をみてみよう。ただし、『立川市史』は、農兵と兵賦を混同しており、若干正確性にかけるところがある。
『立川市史』によれば、拝島村組合一九ケ村の農兵にわりわたされた鉄砲は六四挺であり、村高と献金額に応じて配分されている。また、慶応元年九月にも農兵訓練がおこなわれ、それに参加した人員も前頁の表に示したとうりである。
組合村農兵御渡筒割合
農兵参加者数
この表には上川原・福島という昭島市域の村がみられるが、拝島・大神などはない。だが参加者がない村々が、農兵にまったく参加していないのではなく、なんらかの都合でこの稽古に参加しえなかったのではないか。たとえば農兵取立てが遅れたとか、当日不都合があったとかの理由である。
『立川市史』はこの表を分析して、「組頭以上の村役人階層から三十七名(四六・八%)を出していることが注意される」(同市史五四九頁)としている。たしかに村役人層の参加が農兵制における最大の特微点である。しかし、その理由を、「相当富裕な農民でなければこれに応じられなかった」(同市史同頁)というように、負担能力のみからみるだけでは全貌をつかめない。村役人層の要求と農兵制が合致するという点からみる必要がある。では村役人層の要求とは何か。一言でいえば治安維持である。村落内部で村役人層と小前・貧農層が対立していたこと、あるいは博徒・浪人などの徘徊によって、村落の秩序はみだれていた。この秩序を再建するためにある種の力が必要であることが、すでに早くから認識されていたのである。たとえば四章三節でくわしくみたように、天保一〇年頃には、天然理心流習得熱という形であらわれていたのである。この運動の延長として、村役人層の農兵参加を考えていく必要がある。
村役人層は農兵に主体的に参加していったのであって、けして幕府・江川代官の強制によるものだけではない。当然のことながら、幕府・江川代官の意図と村役人層の要求とは齟齬することもある。江川英竜は、農兵を海防策の一環と考えていたのだし、幕府は補助兵団と考えていた。それに対し村役人は、村々の治安維持を目的として農兵となったからである。これは昭島市域のことではないが、慶応二年六月一四日に蔵敷村農兵は、幕長戦争に参加する為の上坂を求められた。農兵達はこの幕府の政策に対し、「最初農兵御取立之御趣意とは相振れ候」として拒否する態度を示したのである。この要求は、武州世直し一揆の発生が知れるに従い沙汰やみとなったが、幕府・江川代官と村役人の農兵に対する考えかたの相違が典型的にあらわれた事件として注目される(近世村落史研究会編『武州世直し一揆史料』による)。
ふたたび先の表にもどろう。表からみるかぎり、昭島市域の村々は、参加者数・献金額の双方とも、拝島村組合のなかで低い部類に属していた。昭島市域の村々は、全体的傾向として、農兵制に関してあまり熱心ではなかったことがうかがえる。また史料があまり残されていないのも、たんに保存の問題ではなく、このような傾向の反映であったと考えたほうがよいのではないか。
しかし、武州世直し一揆を経験すると、急に態度があらたまり、熱心となってくる。たとえば、大神村の村役人たちは、知行地においても幕領と同様に農兵を設置すること、それにともない二〇挺の鉄砲をかし与えてほしいと要求している(史料編一五五)。
この農兵はどのような活動をしたのかを簡単にみておこう。拝島村組合農兵が、直面した最初にして最大の事件は、武州世直し一揆であった。農兵の統轄者江川太郎左衛門は、一揆発生を知ると同時に、拝島村の名主・組頭に対し、至急農兵をあつめて防備をととのえること、また一揆を見かけ次第打ころすなり、切殺すなりしてかまわないと触れを出している(史料編一三九参照)。だが、拝島村組合の農兵が集結する以前に、一揆が昭島市域を含む拝島村組合に突入してきたため、有効な働きをなしえなかった。拝島村組合の農兵は、一揆に対決しえなかったが、隣りの日野組合の農兵は、一揆と衝突し、一揆鎮圧の主力となっていくのである(本章四節参照)。
つづいて慶応三年に、拝島村組合農兵は、相模国の海岸防備のため、一組合から四、五名派遣されている(史料編一六四)。この出張に要した経費一五〇両三分余が拝島村組合に割りあてられているから、かなり大規模なものであったことがわかる。
最後に、明治元(一八六八)年四月、武州正楽寺村に二七、八人の徒党が発生した。この徒党は、農民によるものなのか、東征軍に抵抗する幕府軍強硬派によるものなのかは不明である。この徒党を鎮圧するために、中藤村まで出張したことがある。これが農兵の最後の動きであった(史料編一六五)。