B 組合村の警備体制

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 農兵制の最大の特徴点は、村役人=豪農層が自らの力で村落秩序を自衛しようとした点にあったことをみてきた。このような試みは農兵制のみにかぎらない。先に多摩郡に広範に流布した天然理心流剣術学習の動きをみてきたが、これも村落秩序の自衛のためであった(四章三節参照)。本項では、農兵制のすそ野ともいうべき、組合村の警備体制を検討しておきたい。
 組合村の警備体制については、関東取締り出役などからの触れを受けて、組合村傘下の各村が作成した議定によって判明する。このような議定書については、安政元(一八五四)年、文久三(一八六三)年、元治元(一八六四)年慶応四(一八六八)年と年欠の一つの計五種類が残存している(史料編一三四~一三七)。このうち慶応四年のものだけが日野組合の議定で、他はすべて拝島村組合のものである。年欠の議定書は、内容からして文久頃のものと推定される。この議定書は安政期、文久~元治期、慶応四年の三期に区分することができる。
 もちろん安政以前においても、村落秩序の維持は村役人の責任とされ、組合村結成以後はこれに組合村惣代がくわわった。しかしそのためにとるべき行動として具体的に指示されていたのは、意見を加えて改心させるか、それでも聞き入れないものを役人に差し出すかでしかなかった。たとえば天保一一(一八四〇)年の組合村請書では、その点を次のようにのべている。
  一組合村取締方相弛(ゆるがせ)候旨ニ者無之候得共、所ニ寄取締方不行届哉ニ相聞候村茂有之、一体百姓共之内風俗不宜又者無商売ニ而博奕渡世之稼いたし候者杯差置候村も有之、右者兼而申渡候通、惣代共并一村限役人精々異(意)見差加、不取用ものハ廻村之節申出、都而組合内之一村同様実意ニ堅相守候様可致事
 天保一一年という段階でさえ、このようなものであった。ところが安政に入るとその姿は一変する。この変化の要因は、嘉永六(一八五三)年五月のパリー来航にある。すなわち、「異国船渡来之模様承候ハバ、壮健之者共追々江戸表出、自然無宿悪党もの立廻り乱妨および」(安政元年正月の江川代官触、指田万吉家蔵『御用留』より)というように、ペリー来航によって、警備が手薄すになった結果、農村の秩序が急速に悪化することに対したものである。
 安政元年の議定は、一家、一村、組合村の三段階にわけ、それぞれの警備が指示されている。まず「一家取締」として、(一)長さ二間の竹棒と草鞋一足を男の数だけ用意すること、(二)一家に一つの提灯とろうそくの用意、(三)火急の節の連絡のため一家に一つの拍子木の用意、以上の三つが指示された。さらに「一村取締」として非常の節には、このような用意をした人間が五人組から一人づつ名主宅にあつまることが要請されている。「組合村々取締」としては、取締出役の命令にしたがって、先にみたような用意をした人々を組合村惣代があつめるというのである。この議定がこれ以降の組合村警備の基本となった。
 しかし、文久・元治となると治安悪化は一層激しくなった。それが警備体制にも反映してくる。文久・元治期の議定と安政のそれとの間にある相違は、次の諸点であろう。
(一) 手にあまった場合殺害してもかまわないとしたこと。
(二) 見張番屋の設置、巡回の強化
(三) 村相互の連絡を強化するために相図の方法が改善されたこと
(四) 出張人夫の数が明確にされたこと
 このなかで最も注目しなければならないことは、(一)であることはいうまでもないであろう。そしてこの期は、先にみた農兵取立ての時期と一致しており、農兵を中心として、組合村の自衛機構が完成された時期とみることができる。
 それが慶応四年になるとが一層強化される。その契機はいうまでもなく武州世直し一揆である。合図の仕方や陣立などの警備方法については、あまりかわっておらず、かえってあいまいにさえなっている。変化は、(一)警備に出てあげた勲功への褒賞、あるいはその結果死亡したり負傷した場合の「手当金」が定められたこと、(二)警備体制内部の秩序維持や、警備体制の意義などにふれており、思想面からの強化がはかられていることなどにあった。特に一二条において、「組合村の人数繰出候も、全く悪徒乱妨の徒相防ぎ、百姓相続の為、面々身命を軽んじ出張候」と、その目的を相確に示したことは注目される。
 このように、議定は外部から侵入する秩序破壊者を、組合村独自の機構によって排除・防衛しようというものであり、その為に日常時から体制をととのえておこうとしたのである。もちろん、この警備体制の中心となったのは、村役人達であった。議定の中にも、「常々村役人より教授致し」とか「村役人精々世話致し」とかのべて、その役割の重要性を強調している。そして何よりも彼らの子弟は普段から天然理心流を学び、農兵の訓練を受けていたのだから、戦いの場でその中心となるべき存在であったのである。
 農兵制を中心として、村々の自衛機構が完備されてきたさまをみてきた。このような姿を「武装した組合村」とよぶことができよう。だがまだ問題は残されている。それは武装してまでして、組合村の何を、誰を守ろうとしたかの問題である。なぜならば、この時代は村落内の階層分化が激しく、利害がことごとく対立する上層農と下層貧農を、ひとしく農民一般として論じられるような段階ではないからである。結論的にいえば、組合村の自衛組織は、村役人=豪農層の利益を守るためのものであったのである。それは、武州世直し一揆の過程で鮮明にあらわれてくる。そこで節をあらため、この一揆を考えていくことにしたい。