一 武州世直し一揆の性格

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 武州世直し一揆は、慶応二(一八六六)年六月一三日に武州秩父郡上名栗村で発生し、同月一九日に完全に鎮圧されるまでつづく、上州・武州の二ケ国にまたがる大一揆である。昭島市域の古老達の間では、「ぶっこわし」として語りつがれている。この一揆は、幕藩体制社会の崩壊を象微的に示す事件である。その点で近世編の叙述のおわりに、もっともふさわしいものであるといえよう。
 慶応二年は、全国各地に多数の一揆・打こわしが発生した年であった。全国の一揆・打こわしなどを集めた青木虹二氏の『百姓一揆総合年表』には、一〇六件の一揆と三五件の都市騒擾が集録されている。もちろんこの件数は、近世期を通じて最も多い。
 ところで武州世直し一揆が発生した慶応二年六月といえば、幕府が第二次幕長戦争を決意し、軍事行動を開始した時期にあたる。しかも、五月一三日に将軍が在城する大坂での打こわし騒動、同月二八・二九両日の江戸での打こわし騒動につづいて、この一揆が発生したのである。この三つの闘争が、数多い慶応二年の一揆・打こわしのなかで最も重要な意味を持っている。それは幕府の最重要政治都市である江戸・大坂と軍事的財政的基盤である関東に発生し、一時的にせよ、幕府の機能をまひさせたからである。このようにその政治的・軍事的基盤で重大な問題を発生させる幕府が、長州藩を軍事的に屈服させることなどできるはずはないであろう。いいかえれば、武州世直し一揆を含む前述の諸闘争こそ、幕府の滅亡を決定する重大な要因であったといいうるであろう。
 先にのべたように、この一揆は六月一三日に上名栗村で発生したが、その要因は次の史料に示されている。
  抑其趣意(一揆発生の要因)を聞に、近来諸色追々高直に相成、米直段四斗入壱駄金六両壱分、大麦壱駄金三両三分位、右の振合ニて諸品とも高価ニ相成候事誠に前代未聞候、是偏に横浜御開港の故と上下一統申唱候(『武州世直し一揆史料』(一)、一六〇頁、以下『一揆史料』と略称)
 一揆発生の要因を考えてみると、最近諸物価がはげしく上昇している。米の場合四斗入俵一駄(八斗)で六両もする。その他もそれに準ずる高値である。ではなぜそのようになったかというと、横浜開港をした結果である。このように史料はのべている。この物価急騰のさまは、すでに本章第一節でみてきているので参照されたい。
 農村で発生した一揆であるのに、米・麦の値上りが要因となることに奇異な感じをもたれるかもしれない。それは三章や本章の冒頭であきらかにしたように、農村のなかで階層分解がすすみ、下層民は土地を失って、農業経営では生活を維持しえなくなっていたからである。彼らは日傭・雑業に従事し、米・麦を買い喰いする生活をしていたのである。幕末期には、このような人々が在町や農村に大量に存在していた。もちろん昭島市域とて例外ではない。彼らは前期プロレタリアとか半プロレタリアとかよばれている。彼らと共に、このような状況におちこむ危険性を多大に有している自作農が、一揆に参加していったのである。
 関東一円には、このような状況の人々が広く存在していたから、一たび名栗で発生した一揆は、急速に拡大していくことになった。前頁の地図は一揆の行程を示すものであるが、北は本庄から南は昭島・五日市まで、東は与野から西は秩父山中迄という実に広大な地域が一揆に含み込まれていることがわかる。

武州世直し一揆概観図(慶応2年6月13~19日)
山中清孝「幕藩制崩壊期における武州世直し一揆の歴史的意義」(『世界史における民族と民主主義』)より転載

 一揆は、(一)施米・施金、(二)物価引下げ、(三)質物や借金の無償返還、(四)質流れ地等の返還要求をかかげて行進した。そして、一揆の中心となった半プロ・前期プロ層や中・小自作層や自小作層の人々は、当面の敵となった豪農の家を打こわしていったのである。この打こわし件数を正確に知ることできていないが、現在のところ、二国一五郡四四九軒が確認されている(註)。
 (註)山中清孝「幕藩制崩壊期における武州世直し一揆の歴史的意義」(『世界史における民族と民主主義』歴史学研究別冊特集一九七四年度)所収による。