一揆の発生と飯能・扇町屋・所沢等での打こわしの情報は、すぐに昭島市域にもつたわってきたに違いない。しかも自分の村へ押寄せてくるかも知れないという情報は、村に混乱と恐慌状態をひきおこしたであろう。だが下層民を中心として、少なくない人々は、一種の期待をこめてこの情報を聞いていたであろうことも想像に難くないのである。
もちろん支配者達は、この事態に手をこまねいて見ていたわけではない。江川代官所は、農兵をもって一揆に対決させようとした。六月一五日江川代官所は拝島の名主・組頭に対して、至急農兵をあつめること、また一揆を見かけ次第打殺すなり、切殺すなりすべきであることを命じている(史料編一三九)。
八王子や日野宿にあつめられた農兵は、後に見るように、一揆鎮圧の中心部隊として活動することになる。しかし拝島・立川の農兵が結集する以前に、早くも立川や昭島市域に一揆がおしよせてきたのである。
昭島市域に一揆が到達したのは、六月一六日であった。一揆は新たに村に入るたびに、人足や新規の部隊を徴発した。しかもこの徴発を円滑に行なうために、一揆は不参加者に対して打こわしや放火をするといかくしたのである。昭島市域でもこの参加強制はおこなわれた。中神・宮沢村でおこなわれた参加強制について日野市の古谷家文書には、次のように記録されている。
通行致し候村々江人足申付、小村は五拾人大村は百人と相触、若(もし)案内不レ致ニおゐてハ名主は勿論其村内ハ不レ残打こハし候と申、誠ニいたし方無レ之故小前之者同道致し候)(『一揆史料』(二)八五頁)
このような、参加強制によりやむをえず一揆に参加した人々も多くいたであろう。とくに昭島市域のように、一揆発生地から遠い地方では、その傾向が強かったと思われる。しかし、自己の意志によって積極的に一揆参加をした人もかなりいたのではなかろうか。