A 打こわしの状況

1366 ~ 1368 / 1551ページ
 昭島市域に入った一揆は、他の村々でもそうであったように、富有な人々の家を打こわしていった。打こわしとはどのようなものだったか、史料をみてみよう。
  はるかニ聞貝ヲ吹声、其貝ヲ相図として声ヲ立、一同白木綿・綿〓(だすき)銘々持参致し候道具は、鉈・斧・掛矢(かけや)・万力・木太刀・鳶觜(とびぐち)等是ヲ以打こハし、斧ヲ以柱ヲ切打、万力ヲ以家ヲたおし、壁・土蔵は鳶觜・掛矢ヲ以打こハし、鉈ヲ以六尺桶のたかヲ切はなし、木太刀・棒ヲ以戸障子ヲ打破る、其音天響砂煙ヲ立実ニ奔雷の地ニ落か如し(『一揆史料』(二)八六頁)
 これは宮沢村の田村金右衛門宅が打こわされたときの記述である。酒造家であった田村家が打こわされたので、大量の酒が流れ出したことはいうまでもない。その酒は福島村の井戸に流れこみ、水が酒くさくなりしばらく使用にたえなかったと伝えられている(山崎藤助『郷土研究』第十集)。
 はなしが前後するが、田村家を打こわす以前に、拝島・中神村でも打こわしがあった。そのうち拝島の庄兵衛宅が打こわされた状況は次のようである。
  同人(庄兵衛)宅理不尽ニ踏込、貯有之候米穀不残、俵ハ大道江持出し切破り、桶箱等ニ入置候分共打毀し、其外家財不残同様、衣類等者引破り、不法乱妨およひ驚入候へ共、右様大勢之義、如何をも可致様無之、品々申宥、漸建家而己相残し(史料編一四五)
 庄兵衛は、家をこわされることだけは、説得によっておもいとどまらせたが、米穀・家具・衣類は、ことごとく打こわされたのである。このほかに、中神村の中野久次郎の母屋が打こわされており、大神村の中村家は、打こわしの対象とされていたが、あやうく難をのがれたといわれている。
 では打こわされた人々は、どのような経営をいとなんでいたのであろうか。中神村の中野家については、すでにくわしくみてきたところである。彼は縞仲買として財をなし、高利貸活動をいとなみ、一五〇石以上の田地を集積しているこの地域最大の地主であった。宮沢の田村金右衛門は、酒造業で富をきずきあげていた。いうまでもなく酒造は、原料としての米を大量に買い占める必要がある。これが一揆のうらみを買う要因となったのであろう。米買占めでうらみを買ったという点では、拝島の庄兵衛も同様である。彼は持高はわずかに二石一斗しかないが、穀屋を経営していたのである。
 このような打こわしを行いながら、一揆は拝島・田中・大神・宮沢と昭島市域の村々を進んでいった。次の目的地は八王子であり、その先は諸悪の根源と考えていた横浜開港場をめざしていたのであろう。そして、多摩川の渡し場である築地村の川原へと押し寄せてきた。