B 築地川原の戦闘

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 この築地川原の対岸には、「鉄砲ハ筒口ヲ揃、刃ハ小以口(鯉口)ヲ切、鎗ハ鞘ヲ払、釼ヲ抜テ、右様ニ而各々今ヤ遅ト陣ヲ張テ控たり」(『一揆史料』(二)八五頁)というように農兵達がまちかまえていたのである。この農兵は、江川代官下役増山健次郎が指揮する日野宿組合の農兵を中核とし、駒木野・八王子両宿組合の農兵が援軍としてくわわっていた。その数約八〇名ほどであり、鉄砲約五〇挺が用意されていた。
 築地川原に集合した一揆の数については、史料によって数千から二万余とわかれ一定しない。しかし、防備の農兵に対しては圧倒的にまさっていた。両者の全面衝突をさけるために、中神・宮沢・築地各村の村役人や千人同心桑原某が一揆に対して説得を試みている。しかし、勢いに乗る一揆勢は、圧倒的な数を背景に、一気に多摩川を越えようとした。ここに一揆勢と農兵の衝突、いわゆる築地川原の戦闘がおこなわれることになった。

現在の築地川原

 一揆勢は数ではまさっていた。しかし、彼らの所持している武器は、木刀・鉈・鳶觜などであり、打こわしの道具としては有効であっても、戦闘用のものではない。それに対し農兵は、約五〇挺の鉄砲をはじめとして、対人殺生用の武器を携えていた。生活にせまられ「物」のみの打こわしだけを念頭においていた一揆勢にとって、「人」を殺生する兵器の存在そのものが、別世界のことであった。まして、「煙ハ山ノ根ニ連、其音ハ川原・広田・山野ニ響」と形容された発砲にただただおどろきいるほかはなかった。一揆は満足な闘いもしえず、蛛の子を散らすように逃亡した。農兵達は、逃亡した一揆勢のあとをおい、宮沢から上川原、砂川をへて福生村へ進み、一六日夜解散した。
 築地川原の戦闘によって、一揆は二一名の犠牲者と四一名の逮捕者を出している。昭島市域からは拝島村の四名が逮捕されていることが確認される。
 築地川原で鎮圧された頃から、一揆は大きな曲り角に達した。急速に陣営をたて直した封建支配者や豪農・商達がまきかえしてきた。そして柳窪村(現東久留米市)や五日市では築地川原と同じように農兵の手によって、そして与野・熊谷・本庄等では幕府陸軍や藩兵によって一揆は鎮圧されたのである。