村役人達は、一揆によって打こわしの危険にさらされ、支配秩序を混乱させられた。にもかかわらず、なにゆえに熱心に逮捕者釈放運動を展開するのであろうか。それは第一に、このような仕事が彼等の職務であったことによる。第二には、一揆への積極的参加者を出せば、越度として罰せられることによる。第三には、五人組合や親類からの歎願も、かれらを釈放運動に向かわせたであろう。だが、これらの消極的要因のみではないのではないか。一揆により逮捕された人々をも復帰させて、一揆以前の村落秩序を早急に回復させたかったのではないだろうか。
逮捕者を早急に釈放させるためには、実情のいかんにかかわらず、一揆は他村=外から来たものであることを強調する必要があった。村の人間は、外から来た一揆にむりやり連れ出されたのであり、「頭取」=指導者でないことはもちろん、積極的に打こわしに参加したのでもないことを力説した。拝島村組合の歎願書も同様であり、次のように事情を説明している。
中神村久次郎・宮沢村金右衛門とも打毀候趣、依而ハ入牢被二仰付一候もの共之内、高月村助五郎外三拾壱人もの共、打毀手伝致候謂(いわれ)更ニ無レ之、乍レ恐御高覧被二成下一候之(ママ)通り之人物ニ而、農業稼一派篤実身弱之もの共ニ而、途中逃去候もの共ハ可二打殺一与申事ニ恐怖仕、逃退兼候…(築地河原の戦いにより)……悪徒共何方江逃去候跡ニ而、酒食持運ひ又ハ往来使者之もの共ニ有レ之、全打毀手伝致し候(訳欠か)決而無レ之(史料編一四四)
高月村助五郎以下三一人の逮捕者(この中に拝島の四人がいる)は、打こわしに参加しなかったのであり、酒食等をもちはこんでいた人夫にすぎないというのである。
このような村役人の活動にもかかわらず、拝島村の四人と福生村の三人は、一揆への積極的な参加者ではないかという強い疑いをもたれてしまったのである。史料編一四三は、この七人の釈放を求めた歎願書である。史料によれば、六月二六日、高月村助五郎外三九人の逮捕者の大半は、入牢をゆるされ「宿預け」となった。ところがこの中には、先述の七人は除外されていたのである。そこで、かれら七人も、一揆への積極的参加者でないことを証明する必要が生じたのである。歎願書は、この点を次のように述べている。
殊ニ福生村・拝島村之義、築地村迄地続隣村之義ニ付、相互ニ面躰知り合候村方、殊ニ当十六日九ッ時より同八ッ時迄、白昼敢(而欠カ)打毀候手伝いたし候謂無レ之
中神村や宮沢村で行なわれた打こわしは、一六日の白昼の九ッ時から八ッ時(正午から四時半位まで)にかけておこなわれた。拝島や福生村は、この中神・宮沢とは地続きの隣村であり、顔見知りも多かったのであるから、打こわしに参加するはずないというのである。
村役人達は、逮捕された人々が一揆に積極的に参加したものでないことを力説しているが、本当のところは、積極的参加者であったと思われる。とくに、最後まで「在牢」させられた七人は、その可能性が強い。またこの七人は、積極的参加を白状してしまっていたのではないかとも推測される。それは、村役人達が、「愚昧之もの共、前後不揃之申立方等も有レ之哉難レ斗」と七人がした供述を気にかけていることから推察される。
七人のものが供述をしているとすれば、それは拷問をも含めた幕府のきびしい訊問の結果であろう。しかし訊問だけに理由を求めるのも、供述の他の一面を見落すこととなろう。世直し一揆の段階になると、頭取・指導層ばかりでなく、一般参加者達も、自らの行為の正当性を積極的に主張するようになっていたからである。武州世直し一揆と同じ年に発生した大坂での打こわしにおいて、逮捕された大坂市民の一人は、指導者は誰かとのたずねに対し、城中にいる(幕長戦争で出陣した将軍をさす)と答えていた。そんな時代になっていたのである。
ところで、話を先の七人にもどすと、残念ながら、かれらがいかなる処罰を受けたか判明しない。最終的には、先にみた大半の逮捕者と同様に、「宿預け」にされたと見てよいのではないか。
拝島村では、四人の逮捕者を出したので、その釈放のために奔走しなければならなかったし、また「在牢」中の人間を世話したり、「裁判」につきそったりしなければならなかった。そのような活動に使った経費を記述した史料が、清水貞夫家に残されていた。参考のために、日毎の集計をまとめた表を右にのせておくこととしたい。
拝島村一揆捕縛者関係経費
いままで考えてきた逮捕者釈放運動は、一揆の直接的なあと始末であった。だがあと始末しなければならない問題は、そのほかにも山積していた。それは本質的には、一揆によって露呈した村落内部の対立が、隠然とした形で残っていったことによるのである。一揆に積極的に参加した半プロとか貧農とかよばれる人々は、一揆をおこした力を背景に、借金証文の焼失などの有利な条件を利用しようとしたし、村役人や豪農達は、村内秩序を強化しようとした。しかも一揆を発生させた要因は、まだまだ残っていた。たとえば、一揆発生の直接的要因となった物価騰貴は、一揆後鎮静したのではなく、慶応三年春まであがりつづけていた。