このような状況のなかで、慶応二年七月以降も、全国各地で一揆・打こわし闘争はひきつづき発生していた。武州一揆以後、昭島市域で「打こわし」などの激化事件はいまのところ確認されていない。ただ、慶応四(一八六八)年四月一四日に、八王子と小仏の両市に打こわし予告の捨札があり、過敏となっていた人々に衝撃を与えた。
この捨札は、縞仲買たちが不当な金銭相場をたてていることに抗議し、打こわしをよびかけるものであった。捨札は一四・一五の両日、調井河原・大和田河原に参集することを求めていた。もちろん、不参者への打こわしの強迫はわすれていない。とくに、「出人数へ妨致し、見物者大炮ニ而打払い」という文言に、戊辰内乱期の世相を感じさせる。
捨札を出した人物が匿名を用いたのはいうまでもない。彼(あるいは彼ら)は「有志村民・有志隠士」の名で人々に参集を求めた。特に「有志隠士」の名に注目したい。これは、捨札をした主体のなかに、みずからを「草莽の士」と意識する人物がいたことを示してはいないだろうか。その点では、前年の二月二〇日、中野久次郎らを強迫し、軍資金を出させようとした忠誠隊青旗組と一脈つうじるものがある。だが、要求そのものは、農民的性格のものであったことはわすれてはならない。
以上の記述は、すべて中野久次郎の『長徳元卯用留』(史料編一六六)によってまとめた。この記録を書いた久次郎の気持ちは、激しく動揺したにちがいない。二年前の武州一揆で打こわされたばかりであるのに、今また打こわしの対象とされたのである。現状をなんとか打開しなくてはならないという気持ちが、久次郎に強くわいてきたであろう。