C 施行の実施

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 これまで見て来たように、武州世直し一揆以降、昭島市域では顕著な事件は発生していないが、その可能性は充分存在していた。打こわしの対象とされるような村役人や豪農達は、これ以上の打こわし等の事件を未然に防がなくてはならない。しかしながら、この課題は村役人の個人的努力や一村単位の活動でなしうるものではないであろう。それは組合村の機能を強化する以外に方法はなかった。
 このような動きは、一揆直後から開始された。それを示す興味深い史料が、中村保夫家に残されている。(史料編一四二)この史料は一冊にまとめられてはいるが、青梅村組合の議定と拝島村組合の議定からなっている。この両組合の議定の関係を示すものに、普明寺蔵旧秋山太郎家文書がある。これは青梅村組合の議定の写しであり、中村家のものと一字一句相違がない。ただその末尾に次のような記述がある。
  前書之通当組合(青梅村組合)村々示談行届候ニ付、其御組合(拝島村組合)ニおゐても一同人気一致落合候様御趣法被下、市立之場所ニ而ハ別而行届方宜敷、融通相成候様御取斗被下候以上
 この文言から、拝島村組合の議定を作成するための参考資料として、青梅村組合から送られてきたものであることが判明する。このような組合村相互の連絡は、武州世直し一揆に襲われた全地域に共通しているものであると考えられる。
 ところで、この二つの議定は非常に類似していたことはいうまでもない。両議定とも、一揆が行なった質物無償返還と安売り強要が、地域の政治的・経済的秩序を破壊していることに対してとりむすばれたものであることを前文に示している。とくに昭島市域の村々を含む拝島村組合の議定のほうには、「質物無銭ニ而不差戻、穀物其外安売不致候迚、及強談候族茂有之」とあり、一揆後も、質物無償返壊や安売り要求をして、「強談」におよぶ人々がいることが指摘されている。このことは、一揆後も不隠な状態がひきつづき存在していたことを示すものとして重要な意味をもっている。
 この前文に示された状況に対処するものとして、両方とも具体的には次の三項目が議定され
(一) 貧民を救済するために、村役人と「有徳の者」が、村ごとに相応の施行を行うこと。
(二) 商品の値段は、その時の相場にしたがうこと。これに拝島村組合の場合は、できるだけ安価にすることがつけ加えられている。
(三) 質物の利足を定めること。
 このような議定をとりむすびながら、村役人や豪農達は、貧窮する下層民に施行をおこなっていったのである。
 ところで一揆は、たんにその日の生活を維持する食料を要求しただけでなく、安定的な生活を求めて闘ったのである。このことは、質地無償返壊という要求に最も端的に示されていた。一揆の再発をくいとめるためには、この要求にもあるていどの譲歩を示さねばならないであろう。その意味で注目されるのが、中神村中野家の態度である。すでに三章三節にも指摘したことであるが、慶応三年の一年間に多量な田畑が中野家から元の持主に請け戻されている。その量は、実に三一筆一町九反歩余に及んでいる。中野家は、この時まで一時にこれほどの田地を請け戻されたことがなかったことはいうまでもない。
 この事態を直接に説明する史料は残存していない。しかし、中野家からみて、次の二つの理由を想定することはゆるされると思う。第一の理由は、幕末期に中野家は経営が悪化していたから、その資金を獲得するために田地を請け戻させたということである。第二の理由は、一揆に参加する層の要求を受け入れる形で質地の一部を返還し、再度の打こわしを防ぐ布石とすることである。
 しかし、第一の理由には若干の無理がある。それは二町弱という土地では、入手される金があまりにも少額であり、巨大な中野家の経営を補完するものたりえないのではないかということである。また次にみるように、請け戻しをする人々が、あまりにも零細すぎる。彼らが田地請け戻しの資金を容易に入手しえたとは考えにくい。以上のことから、第二の理由がこの田地請け戻し現象の主因であり、もし第一の理由が考えられるとしても、それは副次的なものであったと考えることができるであろう。
 では、中野家から田地を請け戻した人々は、これによってどのような状況をつくり出したのであろうか。それをみるために、請け戻された田地を、人別に表にまとめてみた。前頁の表は明治五(一八七二)年当時の所持地を上段に示し、下段には慶応三(一八六七)年の請け戻し地面を示した。この表は次の諸点を示している。

慶応3年田地請け戻し者一覧

(一) 田畑を請け返した農民は、いずれも小高で村落下層に位置していること。
(二) 万吉の下畑、又右衛門及び八郎右衛門の下田に見られるように、折角請け返しをしたにもかかわらず、わずか五年後にはすでに人手にわたっていること、
(三) 九人のいずれも、明治五年の農業経営の中心は、慶応三年の請け戻し地にあるということ。
 先に中野家の立場からみて、この請け戻しの動きが、一揆と密接なかかわりをもつであろうと推測した。これは請け戻し地をえた九人の農民を分折することによって、一層明確なものとなった。なぜならば、(一)・(二)の頃からみて、九人の農民が金銭的な余裕を生じ、田畑を請け戻したとは考えられないからである。
 この九人の農民は、田畑を再び自作地とすることによって、愁眉を開いたに違いない。もちろん、この田畑のみで経営が維持しえるものではなく、農間余業としての「諸稼ぎ」に従事しなければならないであろう。しかし、少なくとも彼らは、これによって潰れの危機から一時的にせよまぬがれたし、自作地耕作が全経営にもつ比重を飛躍的に拡大することができたのである。まとめていえば、小作人・半プロレタリアの状況にたたされていた彼らは、これ以降小農民という地位に復帰したのである。
 彼らが武州世直し一揆のなかでいかなる位置にいたのか、あるいはなぜこの九人の土地だけが請け戻しの対象となったのか、それを確定するのは困難である。もしかすると、一揆の打こわしに不参加であり、中野家に従順であったことに対する褒賞として田畑が返されたのかもしれない。あるいは逆に、非常に中野家に対して強硬な態度をとり、中野家がやむをえず田畑を返したのかも知れない。もし前者であるとしても、下層農全体のつきあげが、下層農の一部である彼らに恩恵を与えたのはたしかである。下層農にとって、この請け戻しは、武州世直し一揆の重大な成果であった。彼らの理想「世直し」が、ほんの一部に、しかもわずかであるが、実現したといいうるのではないだろうか。