D 組合村自衛機構の強化

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 施行を行なうことや中野家のように田畑を請け戻させることは、一揆再発防止にとって意味のある方法であった。しかしながら、一揆状況を解決する根本的方法とはなりえない。なぜならば、下層農や半プロレタリアートと豪農との対立は、封建社会崩壊過程に伴う経済対立を基本としたものであったからである。
 豪農達にとって好ましいことは、下層農達が再び彼らを打こわすことのできないような治安・秩序維持機構をつくりあげることであった。もちろんかかる動向は、一揆以前から存在していた。先にみた組合村自衛と農兵制や、四章三節であきらかにした天然理心流を学ぶ動きは、その例である。だが武州世直し一揆は、豪農達のこの動向を飛躍的に発展させた。
 それは、築地川原で一揆を鎮圧したのが、ほかならぬ農兵であったことを、彼らは自らの眼で確認したからである。旗本はいうまでもなく、幕府代官所や八州廻り=関東取締出役の警察力は、武州世直し一揆のように巨大な勢力に対しては無力であることを露呈したのである。代官所の力に直接的に依拠することなく自己の村落と経営を維持すること、それが村役人・豪農に課せられた課題であった。
 先に農兵制施行に対し、昭島市域の村々は、献金額や農兵組織の両面からみて、かならずしも積極的とはいいにくい状態であることを指摘した。しかし、武州世直し一揆によって現実の打こわしを経験した今、消極的ではいられなくなったのである。
 豪農達の間で、村落自衛機構に対する関心が高まっていった。それはたとえば、天然理心流道場へかよう豪農の子弟が急速に増えだしたこと、あるいは慶応四年日野宿組合の議定が、従来の自衛機構をきめた議定と比較して、危機感の高まりがはっきりうかがいうることなどに示された。そして、最も代表的な事例として、大神村の中村嘉右衛門ら村役人が、旗本土岐左近に農兵取立てを要求したことをあげられる。この要求は慶応二年一一月に出された。その目的とするところは、次の一節によく示されている。
  当六月十五日乱妨人共蜂起之節茂、右農兵妨方宜舗悪党共速(ママ)々敗散仕候、右ニ付当辺御私領於村々も、御地頭所江奉願上鉄砲御下ヶ相成候村方も御座候間、右体非常為防、当村方ニおゐても御鉄砲十挺村役人共江御預被仰付、農間之折々、最寄村々一同稽古仕度(史料編一五五)
「六月十五日乱妨人共蜂起」とは、いうまでもなく武州世直し一揆をさしている。この一揆を農兵が鎮圧したので農兵に対する信頼がまし、旗本領などの私領でも、農兵設置が一般化している。そこで大神村でも十挺の鉄砲を借りて、農兵を設置したいというのである。
 この要求の先頭にたっていたと思われる名主中村嘉右衛門は、一揆勢によって一度は打こわしの対象にあげられた人物である。幸いにも打こわしはさけられたが、その恐ろしさは身にしみていたであろう。だからこそ、その年の一一月に、農兵設置を願い、一揆の再発を武力で阻止しようとしたのであろう。