A 世直しの希求

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 武州世直し一揆に参加した人々は、何を求めていたのであろうか。先に見た慶応二年七月の拝島村組合議定(史料編一四二)の冒頭には、次のような一節がある。
  今般高麗郡村々暴民共蜂起いたし、世直と相唱、愚民を為連、何渡世を不論、有徳之者家財其外不残打毀
 すなわちこの史料は、一揆に参加した人々が、自ら「世直し」を行なうのだといって、「有徳之者」=富かな人々の家を打こわしたとのべている。このように、一揆参加者が自己の行為を「世直し」と称したことから、たんに武州一揆というのではなく、武州世直し一揆と通称することが多いのである。史料は、一揆発頭村の高麗郡の人々のみが、「世直し」を唱えたかのように述べているが、昭島市域の村々にあっても、社会の下層に位置した人々を中心に、多くの人々がこの言葉に未来をたくし、行動を共にしたことは疑いない。
 では、この「世直し」とは、何を意味する言葉なのであろうか。言葉を分解して考えるならば、「世」=社会状況が「直る」=よい状況に変化するということを意味するといえるだろう。現代語にしいて訳すならば、社会変革あるいは「革命」にあたるであろうか。
 ではどのような社会変革を求めたのであろうか。それは、一揆の行動と要求の中に示されている。武州世直し一揆から見るかぎり、「世直し」とは次の諸点をともなうものである。まず第一には、その変革が個別的な救済ではなく、社会全体の救済を求めていることである。一揆の参加者達が、「万民安穏の心願」の行動であることをくり返しのべていることに注目したいのである。
 第二には、富の不平等是正、社会的平均という意識が存在した。それは、施米・施金の強要や打こわしの行動によく示されている。富を集積した人々が、その富をもたざるものへ分配しなくてはならないという意識が、施米・施金強要の背景にあった。そして、それを拒否した人々は、富を徹底的に破壊されたのである。その点で「世直し」とは「世均し」でもあった。打こわしは、集団的暴力行為である。だがその行為は、個人的なうらみや物とりのためになされたのではなく、社会の「世直し」=「世均し」の為に行なわれたものでのった。すくなくとも、打こわしを行なった人々は、そう意識していたのである。
 第三に、彼らは異常な社会状況になる以前の状況へ復帰することを求めた。それが借金棒引・質地償遷の要求となってあらわれている。開港以降のはげしい経済変動によって、貧しい村人は大きな打撃を受け、豪農達に土地を質入れし、また多額の金を借りた。これが彼らの経営を圧迫し、多くの人々は農業を自営しえず、小作や日傭・雑業によって生活を維持しなくてはならなかった。
 「世直し」とはこの状況を白紙にもどすことを意味した。これが実現されれば、彼らの自分の所持地を耕作することによって経営を維持する農民(小農経営)に復帰しうるのである。「世直し」の究極の目的はここにあったのである。そして、自然のめぐみにもめぐまれ、五穀成就・豊作の世の中がつづくことこそ、彼らの理想世界であった。
 さらに「世直し」という言葉の中には、現状の政治に対する強い不満の意志が含まれていた。彼らが諸悪の根源と考えていたのは、「開港」であること、また慶応二年に出された蚕種生糸改印令が、生産を圧迫するものであることを見抜いた。このように、一揆に参加した人々は幕政の方針に反対すると共に、岩鼻代官所等の出先き機関を打こわしさえしたのである。これらの行動に、民衆が政治に対する不満を強くもっていたことを見ることができよう。
 ところでこの「世直し」は、武州世直し一揆のみにあらわれたのではない。慶応二年と明治元年を頂点として、全国で発生した一揆の多くは、「世直し」をスローガンにかかげて闘われた。また少しく姿を変えたものであるが、慶応三年に発生した「ええじゃないか」も、「世直し」到来を希求して踊られたのである。幕末・維新期は、日本全国津々浦々で、下層の民衆を中心として「世直し」の期待が高まった時代であるといいうるであろう。