B 私年号「長徳」

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 貧しい人々を中心として、現実の幕藩制社会を否定する考えが広がっていたことを見てきた。そこには、新しい社会の設計図は描かれていないこと、きわめて素朴な社会平等論と小農経営復帰論でしかないという欠点があった。しかし、素朴であるが故にかえって力強く展開したこともみのがしてはならないだろう。
 ところでこの「世直し」は、岩鼻代官所打こわしのように、直接幕藩領主に対抗する側面もあったが、大半は村落上層民、豪農に向けられていた。その結果豪農達も現状に安住することができなくなっていた。現状の幕藩制社会がつづくかぎり、矛盾が増大し、一揆が激増すれば、豪農とてその経営を維持しえなくなる。このような点からしても、豪農達も新たな社会を求めていかねばならなかった。
 すでに見た農兵制に積極的に参加することや、組合議定を作成して自分達の力で村落秩序を維持・強化しようという動向は、その反映であった。さらにこの期の豪農達は、通常つぎのような活動を展開した。第一には、勤勉・実直・倹約などの道徳規範を確立し、村落秩序を再建しようとする活動があげられる。もちろん、その先頭に豪農自身がたち、自らも道徳律を厳しく実践していった。このような例のうち、もっとも大規模に展開したのが、二宮尊徳を中心とした尊徳仕法である。
 第二には、積極的な政局への参加があげられる。平田国学などを学び、積極的に草莽の士として尊攘運動の中で活動していった多くの豪農達がいた。多摩の場合、新選組を中心として佐幕派的色彩が強いが、尊攘派とは政治的に対立しつつも、その根は同一であるといいうるだろう。積極的に政局にとび出さないまでも、彼らを援助した豪農達も、意識は同じであったと見てよい。
 残念ながら、村落秩序維持の為の組合村体制強化を除いて、昭島市域の村々には、このような豪農達の積極的活動の事例は知られていない。だからといって、彼らが現状に安住していたのではなかったことはいうまでもない。
 現状の改変を強く求めていたことを示す史料が、中野家に残されていた。それは、「長徳元卯二月用留」と記された一冊の古記録である。「長徳」という元号は、日本史上に存在している。西暦九九五年にあたり、この年藤原道長が内覧の地位につき、藤原氏全盛を誇った時代である。だが、「用留」に記述された内容は、忠誠隊青旗組からの軍用金調達強要や先に何度かのべた一せいの土地返却=請戻しなどが記録されており、あきらかに慶応三(一八六七)年からのものである。そして内容の一部には、慶応三年と記述されているものすらある。ということは、表題にかかれた「長徳」は、実在した「長徳」を示すものではない。中野久次郎は、慶応三年という年を、一時的にせよ「長徳元年」と意識し、書きとどめたことになる。このような現象を私年号と呼んでいる。

長徳元年の『用留』(中野和夫家文書)

 この私年号という存在は、日本史上めずらしいものではない。元号制度が確定する大宝元(七〇一)年以前はともかくとして、一二~一四世紀にはよく見られた現象である。幕藩制社会に入ると、その発生はまれとなり、幕初の慶長一四(一六〇九)年の「大道」「大筒」以降存在しなくなり、慶応四(一八六八)年の「延寿」が唯一の事例であった。その後、自由民権運動の一環である秩父事件の参加者が使用した「自由自治」と、日露戦争の時期の「征露」が存在している。
 ところで、この私年号の意味を理解するためには、元号の持つ意味を考えておかねばならない。本来元号とは、「讖緯説に基づいたり、天皇即位、祥瑞・災異などにより、時代的な理想・願望をこめて、朝廷により制定されたもの」(宮田登『ミロク信仰の研究』四七頁)である。その根底には、元号を使用する民は、自己の支配に属する人間であることを示している。律令制にもとづく古代天皇制国家の形成が「大化」という公年号の公式使用の開始と結びついていたし、近代天皇制国家が成立早々に一世一元の制を確立したことに、このような意識の典型的事例を見ることができる。また中国の諸王朝は、朝鮮・琉球などの当時の従属国に中国元号の使用を強制したのも、この意識のあらわれである。元号の本質が以上のようなものであるから、私年号の使用は、客観的に朝廷の行為に代表される、支配を否定した行為であると認めることができる。
 次に改元の意味を考えてみよう。改元とは、「前の年号の時代を否定して、一新の後に新たなるものに全てを期そうとするものである」(宮田前掲書四七頁)といわれている。
 私年号とは、今までの元号を否定し、改元されたと認識することによって成り立つのであるから、その使用者は、その使用によって、大きな社会変動=変革を求めたことを意味する。
 このように、私年号とは、客観的には現実の支配を否定し、主観的には社会変動=変革を求める意識からなり立っていた。では中野久次郎が使用した「長徳元年」なる私年号は、どのような意義をもっているだろうか。
 まずなにゆえに、「長徳元年」なる私年号を、中野久次郎は使用したのかを考えてみたい。その理由は二つ考えられる。第一には、広範に改元の噂が流布し、その噂を信じて、そのまま記述したことがあげられる。第二には、現実に「慶応」という元号が使用されていることを認識したうえで、改元=社会変革を求めて、あえて自分の私的書類に、次の社会への理想をこめて、「長徳元卯二月」と記録したと考えられる。
 結論的にいえば、前者の場合を考えることは不可能である。それは次の二点から確認される。
(一) 噂が広範なものであり、信用の度が強いものであったとすれば、他の史料にも「長徳」なる年号を見い出しうるはずである。だが、「長徳」と記された文書・記録は、「用留」一種類であり、中神村だけでなく昭島市域に残されたすべての文書・記録に存在しないこと
(二) 改元については、代官等から付達されており、村役人の「御用留」には、かならずその写がある。村役人や旗本の勝手賄い、あるいは縞仲買として広い活動を展開する中野家が、そのような慣例を知らないはずはないし、一定地域の噂などにまどわされる可能性はないと考えられること。
 幕藩体制社会は、封建社会としては異例なほどの強い集権制を特徴としており、支配機構・交通制度は、中世社会とは比較にならぬほど発展していた。その意味では、近世の私年号使用者の意識を中世のそれと同じレベルであつかってはならない。より強烈な主体的意識が存在したといってよい。
 その点では、明治一七年(一八八四)の秩父事件において使用された「自由自治元年」という私年号と共通している。この場合は、明治政府を「有司専制」の政府ときめつけ、その政府を転覆する目的をもった「革命軍」が、自由民権思想にもとづく新しい時代になることを人々に示した私年号であった。
 もとより中野久次郎の意識が、そこまで先鋭化していたとは考えにくいであろう。だが、現実には「慶応」という元号に示される時代であることを知りつつも、あえてそれに対置して、「長徳元卯二月」と記録したことに、中野久次郎の強い社会変革を求める意識を見い出すことは不当ではない。
 ではなにゆえに、中野久次郎は社会の一新=社会変革をのぞみ、私年号を書いたのであろうか。少なくとも三つの要因が考えられる。まず第一は、開港による織物業の衰退による家運の傾きがあげられよう。そして第二には、あいつぐ肉親の死亡があげられる。すなわち、文久二(一八六二)年八月の兄久之助、慶応元(一八六五)年七月の祖父八代久次郎、翌二(一八六六)年正月の父九代久次郎とあいついで肉親を失なったのである。とくにわずか半年間に、祖父と父を失ない、傾きかけた経営は、十代久次郎(私年号をつけた本人)の双肩にかかってきたのである。
 この父死後わずか半年で、武州世直し一揆におそわれ、家屋敷が打こわしされたことが第三の要因であろう。この打撃が、複雑な形で存在した現状への不満を一気に昇華し、ついに私年号使用という状況にまでおいやったと考えてよい。
 中野久次郎は、私年号使用によって新たな社会を希求したと確認しえた。ではどのような社会を希求していたのであろうか。久次郎は、「長徳」という二字に、その願いをこめたのであるから、我々もその意味を解釈することからはじめなければならない。だが久次郎は、この二字を解釈する鍵を我々にまったく残してくれていないのである。しかし次のような解釈をすることは可能であろう。
 第一の解釈は、「徳」川氏の時代が「長」くつづくことを願ったとみることである。そう解釈すれば、幕末期にあらわれたもう一つの私年号「延寿」との性格の類似性をみることが可能である。私年号「延寿」は、幕府敗色のこい慶応四年に、佐幕派である東北諸藩の地域で噂さがひろがったといわれている。(久保常晴『日本私年号の研究』による)
 第二の解釈は、「徳」が「徳川氏」をさすものでなく、道徳倫理の「徳」とみることである。とすれば、「徳」のある人間が支配する社会が生まれ、「長」くつづくことを願ったとみることができる。
 この二つの解釈は、「長徳」解釈の例示にすぎない。元号制や漢文の素養がある人々によって、より豊かな解釈がされることを期待したい。ただ、彼も世直しを求めた人々と同じように、現状が不安定であり、新しい世が出現してくれることを願っていたことだけは疑いもない事実である。
 貧しい農民も豪農も、現状に安住しえず、新しい社会を求めて活動をしていた。このような人々の活動が基礎となり、維新政府樹立へと政治の流れは動いていったのである。明治維新は、個々の志士達の働きのみで可能となったのではなく、これらの動きの一つの結合であると考えることが重要であろう。
 倒幕派は、これらの動きを利用するために、社会が新しくかわるという意味の「御一新」というスローガンをかかげていた。しかし、この「御一新」と「世直し」、また「御一新」と「長徳」の間には、大きな相違があったのではないか。この相違が、維新政府成立以後の歴史にどのような意味をもってくるのであろうか。それは編をあらためて第八編で見ていくことになるであろう。