一 維新政府の成立

1389 ~ 1393 / 1551ページ

住宅都市昭島(昭和52年10月撮影)


太政官布告の制札(普明寺所蔵)

 慶応三(一八六七)年一〇月一四日、徳川慶喜は大政奉還の上奏書を朝廷に提出し、ここに二六〇余年におよぶ徳川幕府は終止符を打った。慶喜は政権を朝廷に返上したが、それは彼が幕府体制を廃して新しい政治体制のもとで、指導権を得ようとしたからにほかならず、大政奉還によって幕府の名はなくなったとはいえ、徳川氏はなお諸藩中最大の軍事的・経済的実力を持つ大藩として、政治の実権を握っていた。慶喜が考えていた新体制は公議政体論であり、天皇を中心に諸藩が連合して政府をつくり徳川氏がその中心に位置するという内容のもので、それによって徳川氏の政治力を温存しようとするものであった。
 一方、薩長を中心とする討幕派は、慶喜が大政奉還を上奏した同じ日に、慶喜追討の密勅を得た。これにより討幕派は討幕の名分は得たけれども、慶喜に大政を奉還されて、その機を逸してしまった。しかし、あくまでも討幕によって新しい政治体制をつくろうとする薩長は、つぎの手段を考えだした。それが王政復古のクーデターである。
 同年一二月九日、王政復古の大号令が発せられ、摂政・関白・幕府の職は廃せされることになり、新たに総裁・議定・参与の三職が設けられた。この王政復古宣言は、天皇親政による新しい政治体制の創出であり、それは政権が徳川氏から朝廷に移ったことを示すものであった。新政府はその夜小御所会議を開き、徳川氏の納地辞官をも決定し、旧幕府の徹底的打倒を目ざすことになった。
 こうした新政府の処置に憤慨した旧幕臣は兵を京都に送って政府と対決した。この旧幕府軍を迎えて政府軍は鳥羽・伏見で戦い、旧幕府軍を敗走させた。鳥羽・伏見の勝利は政府内での討幕派の勢力を決定的なものとした。これ以後は討幕派が政府をリードすることとなり、その下で新しい支配体制が確立されてゆくのである。
 政府は政権がやや安定してきた慶応四(一八六八)年三月、政府の基本理念である五ケ条の誓文を発布した。
 ついで同年閏四月、誓文の趣旨にもとづき政体書(註一)を公布し、政府の政治組織を定めた。政体書は政府の最初の憲法ともいうべきもので、その主な内容は太政官の権力を強化して立法・司法・行政の三権分立制をとり、各府藩県から貢士を選ばせて議員とし、公議世論に決しようとした。また府藩県の政令を誓文にもとづいて施行させ、地方は府藩県三治制を採用したほか、官職・官等を規定したものであった。政府の諸般の事業・藩制改革・地方制度などは、これによってつくられたものである。