新政府の成立とともに庶政一新・局面転換を計る遷都の論議がおこってきた。そのはじめは大久保利通の大阪遷都論で、これは天皇の大阪行幸という形で実現した。しかし慶応四(一八六八)年五月、官軍が彰義隊を打ち破り江戸の騒乱が鎮静に向ってくるころから江戸遷都論が政府内で強くなってきた。戊辰戦争の勝利があきらかになった同年七月一七日、旧幕府勢力の一掃や江戸は国の中央に位置している上に、横須賀という良港も近い、首都にふさわしい施設・建造物がすでに備わっているなどの理由により江戸を東の京、すなわち東京と改め、東京遷都を決定した。東京遷都は天皇の東京行幸という形式でおこなわれ、一〇月一三日、天皇は東京に着き、江戸城を皇居となし、東京城と改称した。なおこれに先立つ九月には慶応は明治と改元された。この後、天皇は一度京都にもどり、翌明治二(一八六九)年三月、再び東京行幸を試み、そのまま京都にもどらず、これが実質的な東京遷都となった。これにより東京はわが国の首都として、政治・文化・経済の中心として発展してゆく。
明治維新、それは近世封建社会から近代社会へという歴史の大きな転換点であった。新政府の成立と新首府の決定とは近代日本の誕生を物語るものであった。こうして開始された近代日本の歩みは、当然のことながら昭島市域の村々にも大きな変化をもたらした。そうした村々の姿を次節以下でたどってみよう。
補註
一、指原安三「明治政史」上巻四四頁 日本評論社 昭和四三年