一 県制の施行

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 新政府が成立すると、その影響はおのずから昭島市域の村々にもおよんできた。昭島市域の村々は近世においては、幕府の直轄領=天領と旗本領で、代官・旗本が支配していた。新政府は成立後、政府は地方制度の改革に着手し、まず府・藩・県の三治制を採用した。この制度は大名領の藩は、そのまま藩として存続を許し、政府により没収された幕府直轄領・旗本領および諸藩の没官領には府・県をおくというものであった。そして府・県にはそれぞれ知府事・知県事がおかれた。なお、府は京都・大阪・江戸などの重要な地域におかれた。これにより武蔵国には武蔵県がおかれ、昭島市域の村々はその支配下に入った。武蔵県は旧幕府時代の代官支配地を総称したもので、旧幕府の代官三人がそのまま知県事に任命された。このため武蔵県には三人の知県事がおかれ、代官は知県事と名称を替えたが、内容は旧態依然のままであった。
 しかし、こうした過渡的な制度もやがて改革され、知県事も政府の役人が旧代官にとってかわり、明治二(一八六九)年一月から二月にかけ武蔵県は小菅県・大宮県・品川県の三つの新しい県に分割された。
 松村長為-古賀一平-品川県(明二・二・九)
 桑山効-河瀬秀治-小菅県(明二・一・一三)
 山田政則-宮原忠英-大宮県(明二・一・一八)
 ここに旧代官支配の継承であった知県事支配は地方行政画域の「県」に変ったのである。知県事も県知事と改称した。そして昭島市域の村のうち旧旗本領は品川県の管轄となった。
 一方、旧幕時代に天領として代官江川太郎左衛門の支配下にあった村々は、品川県に先立って慶応四(一八六八)年六月に設置された韮山県の管下にあった。
 天領と旗本領が相給していた昭島市域の村々は品川県と韮山県、あるいは幕臣であったが朝廷に帰順を許され朝臣となった太田運八郎領と、一村でも管轄が異なる村もでてきた。
 明治二(一八六九)年二月の「組合村高書上帖」によれば、昭島の村々の管轄はつぎのようであった。
  拝島村-韮山県・品川県・太田運八郎・大日堂・竜津寺
  大神村-韮山県・品川県
  田中村-韮山県・太田運八郎
  上川原村-韮山県
  作目村-品川県
                                            (普明寺文書)
 とくに拝島村などは五元支配という錯綜ぶりであった。しかしまもなく相給支配の村々を品川県か韮山県のいずれかに統一して一円的な県域を作ろうとする動きがはじまり、昭島市域では明治三(一八七〇)年に入ってから
 品川県-郷地村・福島村・大神村・作目村・拝島村・田中村
 韮山県-宮沢村・中神村・築地村・上川原村
と整理されていった。
 品川県に入った六ケ村は熊川村を親村とする第一二番組に組み入れられた。韮山県に属した村のうち上川原を除く三ケ村は柴崎村を親村とする組合に入っていた。この頃の村の支配や組織は旧幕時代とほとんど同じであった。村ごとに宗門人別帳がつくられ、租税の課税方法も変らなかった。村の組織も名主・組頭・百姓代が村の運営にあたっていた。
 明治四(一八七一)年七月、廃藩置県がおこなわれ、これまでの府・藩・県制を改め、府・県制が実現された。これはすでに廃藩置県に先だつ二年前、版籍奉還にふみ切り、表面的にもせよ、版籍奉還を藩主たちに認めさせていた政府の地方制度整備の一大改革であった。廃藩置県は旧幕時代の地方制度を一新し、府県の数は統合され同年末には全国で三府七五県となった。
 関東地方では武蔵・相模の二国に足柄県・神奈川県・東京府・入間県・埼玉県が新設され、品川県・韮山県は廃止となった。韮山県は神奈川県に組み入れられ、品川県は一時東京府・入間県などに分割移管ののち、明治五(一八七二)年、韮山県と同じく神奈川県に編入された。これにより韮山・品川両県に属した昭島市域の村は、神奈川県の管轄となり、明治二六(一八九三)年東京府に移管するまで神奈川県の管轄が続いた。