三 地租改正

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 明治政府は成立以来、つねに財政難に苦しんできた。旧幕府の疲弊した財政をそのまま引きつぎ、近世的年貢制度を継承したので、豊凶による収入の不安定、各地で異なる年貢の徴収率などの弊害が政府の財政を悩ませていた。しかも殖産興業や軍事力創出などのために、支出は年々増大した。こうしたことから財政を安定させる税制の改革は政府成立当初から、もっとも緊要な課題の一つであった。そのためには政府歳入の大部を占める地租の改正が必要であった。政府は田畑勝手作り、田畑永代売買の自由、農民の職業選択の自由などの農民をしばりつけていた封建的制度の予備的改革を行った上で、明治六(一八七三)年七月、地租改正条例を公布した。地租改正の内容は次のようである。
(一) 江戸時代以来地租は田畑の石高または収穫高を基準に課税されていたのを改めて、地価を基準として地租を賦課する
(二) 地租は地価の一〇〇分の三を定率とする
(三) 従来の物納制を廃して金納とする
(四) 地租は年の豊凶によって増減しない
 神奈川県では明治七(一八七四)年から同一一(一八七八)年まで四ケ年の歳月をかけて改正事業がおこなわれた。昭島市域では明治八年から九年にかけて実施された。しかし、事業は困難で拝島村では八年七月、反別野帖を早く提出するように神奈川県から催促されている。
  野帖差上日限御受書
         第拾弐大区五小区
          武蔵国多摩郡
                      拝島村
  右者地租御改正ニ付十字繩方法を以反別野帖差上方等閑之段夫々御警責ヲ受恐入候然ル上者幾手ニも分配尽力勉励仕本月十五日限不残野帖差上順席ヲ以御検査可奉願候依之御受書如件
                                                (普明寺文書)
 
 だが一〇月頃には調査を終ったらしく五小区の村々は、村用掛の連書をもって一一月には書類を提出すると記録にある。改正事業は地元の区長をはじめ、正副戸長・村用掛り・代議人などが参加した。拝島村では村用掛臼井留兵衛・池島権左衛門、代議人青木伝七・小山安二郎・榎本伝右衛門・島田治郎右衛門・榎本忠兵衛・谷部弥五郎・宮岡弥太郎の他、反別調査担当人として小山藤五郎・高橋伝蔵・榎本十兵衛・乙幡清兵衛・小林源兵衛・大沢勝右衛門が任命され、秋山禎之助が改正担当を総括していた。こうして土地の測量が終り、土地所有者の決定、土地の地位等級の決定がおこなわれた。

田畑其他収穫地価算量書上帳(原茂洋治家所蔵)

 明治一〇(一八七七)年、中神村は「税法諸改正ニ付田畑其他収穫地価等算量之儀同村地位ノ等級ヲ以テ四囲村々トモ比準シ適実取調候処書面之通相違無之依而此段申上候」と区長・戸長・村用掛・代議人の連署をもって「田畑其他収穫地価算量書上帳」を県へ提出した。これにより中神村の土地の等級を知ることができる。昭島市域の村の村勢を知る一例として、それをまとめたのがつぎの表である。
 
    中神村土地等級表
 
          町 反 畝  歩
  田反別   二二、三、五、〇七
   一等甲     九、五、一九
     乙     二、六、一五
   二等甲   一、六、〇、〇二
     乙     九、五、二一
   三等甲   二、四、七、〇一
     乙   三、三、八、二六
   四等甲   七、四、三、〇九
     乙   二、二、二、二四
   五等甲   二、二、一、二九
     乙   二、七、七、二六
   六等甲     八、五、一九
     乙     九、一、〇五
   七等      二、八、二二
  畑反別   八五、八、六、二二
   一等甲     三、三、二六
     乙     五、二、〇三
          町 反 畝  歩
   二等甲   一、一、五、一八
     乙   二、〇、六、〇〇
   三等甲   三、九、五、二〇
     乙   五、四、〇、二〇
   四等甲   九、三、八、二〇
     乙  一三、九、九、二八
   五等甲   四、七、四、〇五
     乙  一〇、四、〇、一〇
   六等甲  一〇、三、六、一七
     乙  三三、七、八、一〇
   七等      一、五、〇五
  山林反別  七三、八、一、二四
   一等   二六、一、四、二二
   二等   二一、〇、二、一五
   三等   二六、二、四、一七
  藪反別    一、一、四、〇〇
   一等        六 一九
   二等    一、〇、三、一五
  宅地     八、八、二、〇四
                               (原茂洋治家文書)
 
 村の土地等級もきまり、これによって地租改正の最終目的である地価が決定された。地価の算出方法は、土地の売買価格ではなく、土地からの収穫によって割りだされた。つまり、収穫量を金額に換算し、そこから種子・肥料代のような生産に要する費用および地租・村費などを引いた、残りの額を地価と算定したのである。
 なお、この地租改正に要した経費は、すべてその村の村民の負担となった。地券でさえも、その交付には代金が徴収された。

明治12年地券(市役所保管谷部精一家文書)

 地租改正は近代的租税・土地制度の確立の点では画期的な改革であった。しかし一〇〇分の三の税率は、従来の貢租を下回らないものとして決められたので、農民はこの後も永く重税に苦しめられた。地租改正は政府の租税収入を安定させたが、一方農民階層の分解を促進し、その後における地主制の基礎を造出してゆくのである。