六 町村分合

1413 ~ 1415 / 1551ページ
 明治一七(一八八四)年区町村会法は大改正された。これまで民選であった戸長は府県知事の任命する官選となり、町村会は、その議決事項が制限され、議案の発案権は戸長のみが発案者となることができた。また議員の資格も地租を納める者だけに与えられた。こうして町村の行政に政府の強力な統制が加えられるようになった。
 ついで政府は連合戸長制を実施した。連合戸長制とは、戸長役場の管轄地域を拡大し、数ケ村を組み合せ、そこに一連合戸長役場を設置するものであった。神奈川県は同年七月、連合戸長制にもとづく新しい戸長管轄区域と役場を定め、北多摩郡では二一ケ所に連合戸長役場が設けられることとなった。昭島市域の村では田中村・大神村・宮沢村・上川原村と築地村・郷地村・福島村とがそれぞれ四ケ村・三ケ村で一戸長をおく連合的形態をとっていたが、連合戸長制の施行にともない拝島村・中神村とともに立川村と連合して、一〇ケ村連合村をつくった。その戸長役場は中神村におかれ、戸長は大神村の中村半左衛門が就任した。
 これについで明治二一(一八八八)年四月地方制度史上、画期的とも称すべき市制・町村制が実施された。この制度は明治期の地方制度の骨子をなすもので、およそつぎのような内容をもっていた。まず市町村に自治体としての法人格を認め、条例・規則の制定権をあたえた。町村長は町村会の選挙により選出し、府県知事の認可をうけることとなり、町村の支出は町村会の議決によることが原則となった。また町村議員の選挙権には町村税納額の多少によって一定の制限があった。
 町村制の施行にさいし、大規模な町村分合が強行された。これは町村制により従来府県の行なっていた仕事のうち、町村の負担する事務は町村に移されたため、町村の財政負担能力の増強を計った結果であった。町村分合は三〇〇~五〇〇戸を標準として行われ全国の町村数はほぼ五分の一に激減した。町村分合は連合村にもおよび、中神村などと一〇ケ村連合村をつくってきた立川村が分離独立したのは、この時のことであった。立川村の分離により昭島市域の中神村・築地村・大神村・宮沢村・上川原村・田中村・拝島村・郷地村・福島村の九ケ村は組合村を結成し、立川村の飛地を併合した。さらに戸長役場も中神村から大神村に移った。この九ケ村組合が明治三五(一九〇二)年拝島村が独立村となるまで続いてゆくのである。

市制・町村制施行に関する上論写(吉野龍家文書)