一 自由民権

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 自由民権運動の歴史は明治七(一八七四)年一月、板垣退助・後藤象二郎ら八名によって、民撰議院設立建白書が提出されたことにはじまる。維新後成立した明治政府の要職は旧薩摩・長州・土佐・肥前の四藩の出身者が、ほぼ独占していた。明治六(一八七三)年の征韓論により政府内が分裂した後は、この傾向が一層強くなった。当時、このような政府を国民は「藩閥政府」と呼び、また一部の役人によって専有された状態を「有司専制」ととなえ、政府の体制に不満を示す者も多かった。
 政府の専制的・藩閥的性格は中央集権体制が強まるほど、その色彩は濃くなっていった。こうした政府に対し、欧米の民主主義思想をよりどころに、人民の権利と自由の伸張のため、国会の開設・憲法の制定、および国民の参政権穫得を求める動きがでてきたのである。そして、人民の自由を確保せよ、人民の権利を重んぜよという主張は、そのまま「自由民権」と略称された。民撰議院設立要求を起点として、明治一〇年代に入ると全国各地で、さまざまな形をとって、国会開設の運動が展開されることになった。
 明治一三(一八八〇)年、二府二二県の代表一一四名が集まり国会期成同盟が結成され、続いて四月には二府二八県の有志八万七〇〇〇人の署名をえて国会開設請願書が提出された。国会開設請願書や建白書は、この年だけでも五四件に達し、各地に政社が生れ憲法草案も作られるなど、民権運動は翌一四年にかけて最高潮に達した。こうした運動の高まりにたいし、政府も国会開設を認めざるをえなくなり、明治一四(一八八一)年一〇月、国会開設を約束する詔勅を出したのである。これを契機に自由民権派は急進的な自由党や隠健な立憲改進党などの政党を組織して、国会開設に備える態勢を整えてゆくことになる。