三 自治改進党の結成

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 そうしたなかで、明治一三(一八八〇)年一月一五日、北多摩郡の有志一四四名の人々によって、自治改進党が組織された。そして同日、府中の高安寺で大会が開かれ、自治改進党の組織と盟約とが決定された。同党の規則は総則・社則・議則の三部からなり、それはつぎのとおりである。
    自治改進党総則
 第一条
  我党ノ主義ハ人民自治ノ精神ヲ養成シ漸ヲ以テ自主ノ権理ヲ拡充セシメントスルニ在リ
 第二条
  首条ノ主義ヲ拡張セン為メニ毎月一回会日ヲ定メ演説又ハ討論ノ会ヲ開クヘシ
 第三条
  我党ハ我主義ヲ達スルニ便ナル為メ必ス方域ヲ画ラス広ク結合ヲ謀リ和合一致シテ利害憂楽ヲ共ニスルモノトス
  但便宜ノ為メ中央部ヲ定メ又ハ各地ニ支部ヲ置クコトアル可シ
 第四条
  我党ハ我主義ヲ達スルタメニ適宜ノ事業ヲナシ終始此ノ主義ヲ変スルコトナカルヘシ
    社則
 第一条
  我党ノ主義ヲ永遠ニ維持センカ為メニ社長副社長ヲ置者トス
  但公撰投票ヲ以テ定メ任期ハ一ケ年トス
 第二条
  幹事ハ五名ヲ置キ同盟中文書往復渾テ一切ノ事務ヲ掌ラシム
  但公撰投票ヲ以テ定メ任期ハ六ケ月トス
 第三条
  社員タラント欲スルモノハ社員ノ紹介ヲ以テ之ヲ幹事ニ告ケ社員中ニ報スルモノトス
 第四条
  社費ハ一員ニ付三ケ月金三十銭トス
  但本条ノ金額ハ幹事ニテ三ケ月ツツ前収シ決算ハ毎年七月十二月両度ニ報告スヘシ
    議則
  第一条
  此会ニ於テ疑問ノ起ル時ハ必ス社員ノ評議ニ依テ之ヲ決ス
  第二条
   評議ハ会員討論ノ上無記名投票ニ依テ之ヲ決ス
   但可否同数ナル時ハ会長之ヲ決ス
  第三条
   社員中宿題又ハ席上題ヲ出サントスル時ハ必ス二人以上ノ賛成ヲ得テ之ヲ議場ノ問題ト為ス可シ
                                             (石川善太郎家文書)
 この三規則から、自治改進党の目ざすところは「人民自治ノ精神ヲ養成シ漸ヲ以テ自主ノ権理ヲ拡充セシメントル」もので、国会開設の要求は直接表明されていないことがわかる。そして、自治・自主の確立をうたって自由民権運動のレール上にありながら、「漸ヲ以テ」するという点で、他の激しい主張をとなえる政社とは異なり、隠健な姿勢を示しているといえる。
 自治改進党の幹部は社長砂川源五右衛門、副社長吉野泰三、幹事中島治郎兵衛、小平三平、比留間雄亮、本田定年の顔ぶれであった。同党の名簿には一四四名が名をつらねているが、地域的には府中を中心に郡南部に多く、府中の二七名を筆頭に谷保村八名、柴崎村七名などがそれについでいる。昭島市域からは次の一六名の人々が参加しており、自治改進党にとって昭島はかなり有力な地域であったといえる。
 大神村 中村半左衛門     〃 〃  石川平吉      〃 〃 榎本広輔
 〃 〃 木村新之助      〃 〃  石川八郎右衛門   〃 〃 島田荘治郎
 〃 〃  石川国太郎     拝島村  秋山禎之助     〃 〃 斉藤芳〓
 〃 〃 谷部金五郎(註一)  宮沢村 田村金十郎     郷地村 紅林徳五郎
 中神村 原茂佐助       〃 〃 小町儀三郎
 〃 〃 川島豊亮       福島村 岩崎良右衛門

自治改進党名簿(石川善太郎家所蔵)

 このうち紅林徳五郎、中村半左衛門の二人は、明治一二(一八七九)年の第一回神奈川県議会に当選した上川原村の指田忠左衛門と共に、前述した明治一三(一八八〇)年一二月五日の神奈川県武州懇親会の際には仮幹事に選ばれており、また紅林徳五郎は自治改進党が結成された翌日、谷保村の西野芳寛とともに結成会議に集まった衆客を招待したといわれ、それらによっても昭島人士の活動ぶりがうかがわれる。
 この後同党は演説会を開き運動を展開する一方、組織の強化をはかり、総則第三条の但し書「便宜ノ為メ中央部ヲ定メ又ハ各地ニ支部ヲ置クコトアル可シ」にもとづき支部の設置に進んだ。同年四月二〇日、党は「支部設置議案」を党員に送り、つぎのような案内状を付した。
   別紙文通支部設置議案御廻シ申候間来ル廿六日午前九時迄ニ小金井橋海岸寺ヘ御出頭充分御意見御陳述相成度候也
     四月二十日                                       幹事印
   別紙
   支部設置方法議案
  一、一支部ハ区域中同盟者ヲ以テ定ム
  一、各支部々長一人及事務委員ヲ置クモノトス
  一、各支部共経済ヲ異ニシ其費用徴収ハ適宜ノ法方ヲ設クヘシ
  一、中央部ノ費用ハ其時々各支部人員ニ依リ徴収スルモノトス
  一、中央部ハ府中駅中ニ置キ一ケ年四度一月四月七月十月開会スル者トス
  一、支部ノ分区域左ノ如シ
     第一支部
   谷保村、青柳村、中川原村、四ツ谷村、本宿村
     第二支部
   国分寺村、(本多、(内藤、(戸倉、恋ケ窪村、府中駅、是政村、小田分村、人貝村、上染谷村、常久村
     第三支部
   野崎村、大沢村、押立村、車返村、下染屋村、飛田給村、上石原駅、布田小島分、上下布田駅、国領駅、深大寺村、柴崎村、上ケ給村、佐須村
     第四支部
   下仙川村、入間村、給田村、金子村、和泉村、岩戸村、覚東村、上下祖師ケ谷、大町村、喜多見村、宇奈根村、船橋村、廻り沢村、烏山村、猪方村、駒井村、大蔵村、八幡山村、鎌田村、岡本村、小足立村
     第五支部
   貫井村、小金井村、同新田、(梶野、関前村、上下連正村、牟礼村、中仙川村、吉祥寺村、西窪村、境村、新川村、北野村、(関野、(井口
     第六支部
   田無町、中沢村、神山村、小山村、清戸下宿、上中下清戸村、中下里村、落合村、野塩村、南秋津村、前沢村、門前村、柳久保村、同新田
     第七支部
   (鈴木、(大沼田、久米川村、(野中三組、廻り田村、同新田、小川村、同新田、野口村、(平兵衛、蔵敷村、清水村、大岱村、芋久保村、高木村、奈良橋村、(榎戸
     第八支部
   拝島村、福島村、築地村、宮沢村、大神村、田中村、上川原村、中神村、郷地村、立川村
     第九支部
   中藤村、三ツ木村、横田村、岸村、(上谷保、(中藤
     第拾支部
   砂川村           (印新田
                                           (石川善太郎家文書)

自治改進党支部設置方法議案

 これにより自治改進党の本部は府中駅におかれたこと、昭島市域は立川村とともに第八支部に属していたことが知れる。ただ、これは議案であり、実際に支部がおかれたか否かはあきらかでない。残念ながら、これ以後の自治改進党の消息は知りえない。そこで自治改進党に関与していた昭島の人々の動きをおってみれば、明治二一(一八八八)年九月九日の北多摩郡懇親会には指田忠左衛門、岩崎良右衛門、中村半左衛門、紅林徳五郎の四名が出席している(指田十次家文書)。ついで翌二六年九月、再興自由党とは袖を分った北多摩郡民権派のリーダー吉野泰三の結成した「北多摩郡正義派」の首唱者として前記の人々の他、峯岸谷五郎(郷地村)、高橋仙太郎(上川原村)、志茂芳候(大神村)らの名がみえる。この北多摩郡正義派の目的は会員の交友を主とするもので、その目ざすところは漠然としており、友交団体的性格が強かったと言える。こうして自治改進党と北多摩郡正義派とを結ぶ線上に昭島市域の民権運動が展開されていることを考えれば、その運動は総じて微温的なものであったといえる。

明治21年北多摩郡懇親会第一回出席人名