四 三多摩の東京府編入

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 明治二六(一八九三)年、三多摩地方は明治五(一八七二)年以来、二〇余年におよぶ神奈川県の管轄を離れ、新たに東京府に移管されることになった。三多摩移管は、玉川上水の水源確保と用水管理の問題を契機としたもので、このような動きは明治六年にはじまっていた。明治六(一八七三)年東京府は、玉川上水の沿岸は東京府、神奈川県、入間県に分属しているために管理上支障があると、玉川上水の沿岸の地域を東京府に編入することを要請したが許されなかった。この後、しばらく問題はとり上げられなかったが、明治一九(一八八六)年コレラ病が大流行し、東京府は玉川上水の水質保全のため、上水の流れている西多摩、北多摩二郡の編入を要請したが、これも実現しないで終った。さらに明治二四(一八九一)年に「多摩川上水の涵養民林」の伐採が神奈川県の一存で認可されたことは、東京府に水源保護行政の一元化を痛感させることとなり、三多摩編入の機運をもりあげた。翌二五年東京府は水源の涵養保護、衛生上の取締りの上から西多摩・北多摩の東京府編入を主張し、また多摩川流域外の南多摩郡も民情風俗および甲武鉄道を通じて東京に密接に結びついていると、三多摩全域の編入を要望した。この東京府の意向には神奈川県も賛同したので、三多摩編入問題は解決されたような形勢であった。だが編入の方針が伝えられると、賛否両論がまき起り、それはしだいに自由党と改進党との政争に発展していった。改進党は編入に賛成したが、三多摩に大きな地盤をおく自由党は編入により県下の勢力が弱まることを懸念して猛烈な反対運動をくりひろげた。三多摩では自由党の勢力の強い南多摩郡で反対運動がもっとも激しかった。
 北多摩郡では、むしろ東京府編入に賛成するものが多く、明治二六(一八九三)年二月二三日、三郡有志一、五七九名総代砂川源五右衛門、吉野泰三、内野杢左衛門、紅林徳五郎、中村半左衛門らは、三多摩の東京府編入を支持し、同案のすみやかな通過を衆議院に請願した。そこでは「今日に於ては諸物産大に開け其販路を悉く元を東京に取れり特に甲武鉄道開通以後は大に形勢を改め彼我の間往来織るが如く且暮相接せり、若現今の侭にて更替するなきか三郡人民は常に道を東京に取り更に神奈川県庁に至るの不便あり(註二)」と、東京との結びつきが深いことを強調して、編入支持の理由としている。
 議会では、この問題をめぐって自由党と改進党が対立し、委員会では否決されたが本会議では可決されるという逆転で、ようやく三多摩編入を決定する。こうして三多摩は明治二六(一八九三)年四月より東京府に編入されることになった。この時編入された町村数は北多摩、南多摩、西多摩の三郡合計一八ケ町、一八〇ケ村で、昭島市域の村々も東京府の管轄下に入り、以後首都の一地域を形成することになった。
 補註
  一 「自治改進党名簿」では「柴崎村谷部金五郎」となっているが、「柴崎村」は「拝島村」の間違いである。
  二 渡造欽城「三多摩政戦史料」二八六頁 日本産業新報社 大正一四年