鉄道延長ノ義依願書
神奈川県西多摩郡青梅地方ノ義ハ物産ノ集散少ナカラス為メ将来其繁殖ニ望アルモノ多々有之加フルニ仝郡日向和田村其他数村ニ亘リ無数ノ石灰石有之右ハ方今世上必用ノ物品ニ付之レヲ運輸スルノミニテモ尚其利益少ナカラス候ニ付一会社ヲ設立シ鉄道敷設ノ出願ヲナサント欲セシ処僅ニ十二哩ノ小線ニテ一会社トナシ営業致候テモ亦経済上多額ノ費用ヲ要シ詰リ収支相償ハサル義モ可有之ト苦心仕候間何卒貴社ニ於テ収支御調査ノ上立川村ヨリ日向和田村マテ線路御延長被成下度依之地方有志者総代ヲ以御依頼仕候也
(中村保夫家文書)
総代人は紅林徳五郎(郷地村)、中村半左衛門(大神村)、平岡久左衛門(青梅村)、小沢太平(沢井村)、田村半十郎(福生村)、石川保助(?)の六名で、署名者は青梅町を中心とした西多摩郡が四〇名で大部分を占め、北多摩郡では立川村・郷地村・大神村・上川原村・福島村・宮沢村の村民一二名が名をつらねている。総代人のうち石川保助は不明であるが、他の五名は甲武鉄道に出資していた人々で、地元資本の担い手を代表するものであった。しかし、地元資本の力だけでは単独線を敷設するだけの力がなかったことは依頼書にみられるとおりである。依頼をうけた甲武鉄道は延長することは不可能だが、鉄道の敷設には協力を惜まないことを約束した。
青梅鉄道延長依頼書
延長願いから三年を経た明治二四(一八九一)年、青梅鉄道敷設が具体化した。昭島市域を横断する青梅鉄道創立の事情を創立願はつぎのように述べている。
青梅鉄道創立願
神奈川県西多摩郡青梅町ハ県下一部ノ市街ニシテ其地方百貨集散ノ主点ニ有之処近来社会之発達ニ随ヒ東京其他各地ノ交通頻繁ヲ加ルモ運輸ノ途ハ依然旧観ヲ改メス為メニ営業困難ヲ極メ旦仝地方ニ頗ル良好ナル数種ノ石材無尽ニ有之近来建築等之改良有ルニ伴ヒ之レヲ他ニ輸出セントスル亦如何トモ為ス能ハス斯ク良好ノ材料ヲシテ空シク封鎖セラルルノミナラス弥民業発達スル能ハス甚以テ遺憾無限之儀ト奉存候依之今般私共発起人ト相成神奈川県西多摩郡青梅町ヨリ同県北多摩郡立川村マテ大約十二哩ノ間ニ単線鉄道ヲ布設シ甲武鉄道之立川停車場ニ運輸之連接ヲ計リ依テ以テ該地方民業発達ヲ策リ度志望ニ御座候然ルニ本線之義ハ其地勢トシテ他ニ延長若クハ鉄道ニ連絡スヘキ見込無之旦ツ収益上ニ影響スル所亦不少次第ニ御座候得ハ軌道之義ハ幅員二呎六吋ノモノヲ布設仕度奉存候間何卒特別之御詮議ヲ以右御許可仮免状御下附被成下度別紙目論見書其他略図等相添ヘ此段奉願候也
神奈川県横浜市本町二丁日
第二拾七番地
平沼専蔵
仝県西多摩郡福生村
第六百廿六番地
田村半十郎
仝 田村半十郎
仝 指田茂十郎
仝 小沢太平
仝 山崎喜右衛門
仝 平岡久左衛門
仝 滝上悦蔵
仝 根岸善太郎
仝 野崎利兵衛
仝 稲葉又右衛門
仝 根岸太助
仝 下田伊左衛門
仝 中村半左衛門
仝 紅林徳五郎
仝 浅野総一郎
仝 奈良原繁
内務大臣 品川弥二郎殿
(中村保夫家文書)
この創立願に付した起業目論見書、収支予算書、建設書予算書はつぎのようで、これにより当時の鉄道建設の一コマをみることができる
記業目論見書
今般神奈川県西多摩郡青梅町ヨリ仝県北多摩郡立川村ニ到ル単線鉄道ヲ建設仕度候ニ付テハ其要件左ニ申上候
一 当会社ハ青梅鉄道会社ト称シ本社ヲ神奈川県西多摩郡青梅町ニ置ク
神奈川県西多摩郡青梅町日向和田ヨリ起リ仝郡霞・調布・西多摩・福生・熊川・及北多摩郡拝島・田中・大神・上川原・築地・福島・郷地ノ諸村ヲ経テ立川村甲武鉄道会社立川停車場ニ到ル
一 資本金ハ即チ建設費概算ニ記載金拾万円ヲ弐千株ニ分チ一株金五拾円トス
右之通リニ御座候猶建設費并営業収入ノ概算発記人引受株等之義ハ別紙記載之通リニ御座候也
青梅鉄道会社 発起人
青梅鉄道会社収支予算書
一 金一万八千二百三十円二十九銭 一ケ年収入高
一 金一万十三円三十銭 一ケ年支出高
残七千二百六十円九十九銭 利益金
資本金十万円ニ対スル年七分二厘強
右之通リニ御座候
青梅鉄道会社 発起人
青梅鉄道建設費予算書
一 線路予測費 金五百弐拾円
一 技術員費 金千参百円
一 工事監督費 金九百七拾五円
一 敷地費 金九千九百五円
一 地所費及築提費 金七千五百円
一 橋梁費及ユルベルト費 金五千円
一 砂利代 金九千百円
一 枕木代 金六千五百円
一 軌鉄及付属品 金弐万弐千弐百五十五円
一 布設費 金弐千六百円
一 ポイント及クロッシング代 金千参百円
一 停車場建設費 金千弐百円
一 貨物庫 金弐千円
一 機関車庫 金六百円
一 器機及器具費 金参千円
一 機関車費 金壱万円
一 客車費 金参千六百円
一 貨物車費 金七千五百円
一 電信柱其他 金弐千六百円
一 垣及柵代 金六百五拾円
一 予備費 金六千八百九拾五円
(中村保夫家文書)
なお、収入の内訳は貨物が上り下り一日平均約三〇〇駄で三四円七六銭六厘、乗車は同じく一日平均で青梅~立川間一六三人、沿道乗客はその一〇分の六として二五円四四銭と予定していた。
青梅鉄道の創立願は明治二四(一八九一)年九月、仮免許を下附され、翌二五(一八九二)年六月、本免許をえて、会社設立と鉄道敷設が決定をみた。ついで同年七月にいたり、創業総会を開き委員長に指田茂十郎(羽村)、委員に小沢太平(沢井)、平岡久左衛門(青梅)、紅林徳五郎(郷地)、田中半十郎(福生)、検査役に石川弥八郎(熊川)、岩田作兵衛(甲武鉄道)の役員が選任され、青梅鉄道会社は発足したのである。