執中舎の額(中村保夫家蔵)
明治維新以後における日本の近代国家としての急速な発展は、学校教育の普及がその大きな支柱となっているということは誰もが指摘するところである。然しながら、維新後の近代日本の教育は、欧米先進諸国の例に倣って明治五(一八七二)年に発布された「学制」に始るとはいうものの、その基盤はさらに朔った江戸時代の文化と教育にあり、その伝統の上に成立しているといって差支えないのである。(仲新『明治の教育』至文堂)
江戸時代--とくに一九世紀に入った文化・文政以後は、武士のための学問所ばかりでなく、庶民教育機関としての「寺子屋」が非常な普及を見た。寺子屋は都会のみならず農村においても開かれるようになったし、塾ないし学校的な形態はとらなくとも、僧侶が自坊などで子供に手習を教えるというものまで数えれば、至る所で、その数は夥しいものになったろう。勿論都会と田舎では普及のしかたに大きな差はあったにもせよ、義務教育制度実施以前にもかかわらず、一説には当時の就学率は男子四〇%。女子一〇%に達していたと推定される。(R・P・ドーア「江戸時代の教育」)これはかなり高い数字と見て差支えない。
寺子屋-関東地方では手習所と称することが多かった-における教育の内容・方法その他一般的な慣行については、浅岡雄之助「維新前東京市私立小学校教育法及維持法取調書」(明治二五年・一八九二)、石川謙「寺子屋」(昭和三五年・一九六〇)、R・P・ドーア「江戸時代の教育」(昭和四〇年・一九六五)などに詳しい。一般的にいって寺子屋は、庶民の手によって設立され、維持されていた庶民のための初等教育機関である。そこで授けられたものは読み書き算術の基礎教育であり、当時の庶民生活に必要な「生活の知恵」や技術であった。この基礎教育を終った上で、さらに徒弟奉公等による職業教育が施されたわけである。
寺子屋の教材として最も普及していたものは、いわゆる「往来物」と称するシリーズであった。これには「都路往来」「商売往来」など種類がいくつもあり、教科書であると共に習字の手本を兼ねていた。児童はこの往来物で漢字を覚え、文章を読んで言葉の使い方や書かれた内容を学び、その書体を手本として字を練習した。とくに重視されたのは習字で、生徒のことを寺子または筆子と称したように、習字が日課の大半を占めていたといっても過言ではなかった。
女庭訓往来(原茂洋治家所蔵)