二 昭島地区の教育基盤

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 それでは、昭島付近における学制公布以前の教育状況はどうだったろうか。
 ごく一部の場合を除いて、寺子屋や私塾に関する調査はきわめて不完全なものである。昭島地区の私塾・寺子屋についても同様で、文部省が明治一六(一八八三)年に旧記・古老の体験等に基いて調査した「私塾・寺子屋表」(日本教育史資料巻二三)によると、多摩地区の私塾は八王子に一箇所しか見られない。また同じ表で北多摩郡の寺子屋は二七校の名があがっているが、その所在地は府中・国立・狛江・三鷹・世田谷界隈の村々で、昭島地区の寺子屋については、全くその名前が見られないのである。
 然しながら、寺子屋の名前が見られないということは、決して当時の昭島近辺に寺子屋がなかったことを意味するものではない。前にもふれたように、この明治六年の調査というのは、学校制度が発足してから一〇年以上も経ってから行なわれた関係もあって、大掛りなわりにはきわめて杜撰なものであった。資料の提出がなかったために記録されなかった寺子屋の方が、記録にのった寺子屋の数よりはるかに多かった筈である。第一に昭島地区にしても、ここは昔から和歌俳句などをたしなむ人が少なからずいて、一八世紀末から一九世紀初頭にかけては、戯作者・俳人としていささか知られた郷地村の不老軒転(うたた)のような人物まで出したほどの土地である。寺子屋が一軒もないという方が常識的に見ておかしい。「飛鳥川」(「新燕石十種」所収)が文化七(一八一〇)年の江戸市中の手習師匠の数について、「一町に二三人づゝも在り」と述べているが、それほどまでにはゆかないにせよ、恐らく一村か二村に一人ぐらいは、寺子屋を開いて子供たちに手習いの手ほどきをした教養人はいたであろう。比較的寺院の多い土地柄からいっても、そう考えても少しも不思議はないと思えるのである。