三 福厳寺の寺子屋--光国和尚の日記を中心として--

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 明治以前の、昭島地区における教育の状況を知る手がかりとなる資料の一つに、中神町福厳寺に所蔵されている光国和尚の「日記」がある。光国和尚は臨済宗福厳寺第一七世の住持で、文政五(一八二二)年に生れ、明治二五(一八九二)年に七一歳で没した。日記は弘化四(一八四七)年、彼が二五歳で先住天厳和尚の法嗣となって来住した年一年間の記録である。

天厳和尚の墓(福厳寺)


光国和尚の墓(福厳寺)

 この日記によれば、福厳寺においては少くとも先住天厳和尚の時には、すでに寺子屋が開かれていた。一月二八日に、以前より病臥中だった天厳和尚が遷化したが、その葬儀や法要には天厳和尚の筆子たちが、実にまめまめしく手伝っている。そして、三月三日には、筆子たちが拠金して和尚の冥福のために石塔と石燈籠とを建立しているのである。その連名は三一名にのぼる。その分布をみると中神村が二二名で圧倒的に多く、他は八王子が三名、石川村・日野宿・福生・熊川・溝村・大神村各一名ということになっている。
 天厳和尚が寺子屋で教えていた期間は相当長期にわたったと思われるから、この数はいささか少なすぎるような気がする。しかし彼等は最低でも二〇〇文、多い者は一朱(四〇〇文余)、二朱と拠出しているところから見ても、そうした寄附金が出せる-二〇〇文は米三升あまりの価である-だけの、いわば卒業生の代表格だったのであろう。また、江戸近郊のこの付近からは奉公に出る者も少くなかったであろうから、彼等は村に残った者の中での頭株だったとも考えられる。
 さて、光国和尚について見ると、来住一箇年の間に新規に筆子として入門して来たのは七人(男五、女二)である。
 国作始而筆子ニ登山。進物酒一升持来。(三月一八日)とか
 金蔵新三良鉄五郎高治良筆子ニ初登山。礼弐百文宛。弥八連来(ル)。(六月二四日)
といった記事が日記に出てくる。束修として酒一升、或は銭二〇〇文程度が相場であったらしい。

光国和尚の日記(福厳寺所蔵)

 筆子の人数は、どれぐらいと考えたらよいであろうか。福厳寺においては、光国和尚は前記七人のほか、先住の時からの筆子も当然引継いだと見てよいであろう。明治七(一八七四)年の文部省第二年報によれば、この年神奈川県下の学令人口は七三六〇二人で、総人口五二五二〇一人に対して約一四%を占める。非常に大ざっぱな計算であるが、この比率で計算すると、現存のうち弘化に最も近い明治五(一八七二)年の明細帳では、中神村は一〇四戸、五六一人ということであるから、学令人口は七八名ぐらいにのぼったであろう。この明細帳が、それよりさらに三〇年以前の弘化四年の実態をどのくらい反映しているかはいささか問題がある。しかし、幕末から明治にかけては、特に突発的な事件でもない限りそれほど農村人口に大きな変化はなかったろうと思われる。そこで、仮に人口にほとんど変化がないものとしてみると、ドーアの計算による江戸時代の就学率は男子四〇%、女子一〇%であるから、これをあてはめるとだいたい男子一四~一五名、女子三~四名が寺子屋に通っていたことになる。しかしながら、都会地にくらべて農村の就学率は低いと考えられるので、中神村において常時筆子となっていたのは男子で一〇人から一二人、女子で二~三人ぐらいというのが実状だったのではなかろうか。