四 授業料など

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 筆子たちは入学の時の束修のほか、七月の盆、九月の節句、一二月の歳暮などに謝礼を出すしきたりだったようである。光国和尚の日記によると、だいたい一人二〇〇文というのが相場で、それに何か品物(盆には素麺とか)を添える場合もあった。また二〇〇文の礼も必ずしも守られていたのではなく、一〇〇文しか持って来ない者もいたり、三〇〇文を出す者もいた。しかし、いづれにせよ、謝礼の金額はかなり安かったようで、寺子屋の維持は住持のいわば副業だからこそできたのであろう。当時は学費云々はいやしくも師匠たる者の口にすべきことではなかったから、謝礼も高く、寺子の数も多い町中は知らず、中神のような農村地区では、専業の寺子屋はちょっと経営しにくかったろうと思われる。
 しかし、安い謝礼にもかゝわらず、光国和尚の教授振りはきわめて厳格であった。
 筆子弐三人留置事(六月晦日)
といった記事が日記に見える。師匠というのは厳しいのが当り前で、とくに厳格な師匠は「雷師匠」の名が轟いて、かえって喜ばれた時代であった。(浅岡前掲書)しかし厳しい一方、師匠と筆子との間は後世の学校より遙に親密なもので、七月下旬、光国和尚が江戸経由鎌倉の本山建長寺まで住持事務引継手続のため旅行した際にも
 筆子江筆一対宛土産(七月二八日)
を買求めている。また年末には歳暮の礼を受ける一方で
 筆子江手拭一筋歳暮ニ遣ス(大晦日)
といった心配りもしているのであった。
 福厳寺の寺子屋で、天厳和尚・光国和尚に読み書きを授けられた子供たちが村のどんな階層に属していたかは、日記を読んだ限りではあまりはっきりとは判らない。ただ、筆子たちの中には、大神村の中村嘉右衛門のような豪農、筆子同窓会のスポンサー的な役割まで果した者がいるかと思えば、福厳寺の日雇として始終顔を見せる米吉のような者もいたことは注目すべきであろう。寺の日雇いに出るような、決して裕福とはいえない百姓たちのクラスにまで、この附近の初等教育は浸透していたわけである。維新後の学制の実施にあたり、昭島地区においてはあまり大きな障害もなく、殆んど当然のような形で小学校が設置されたというのも、すでにこの附近の初等教育が、社会の上層下層にわたって広く普及し、理解されていたからだと思われるのである。