当時多摩地区が属していた神奈川県では、学制に先立つ明治四(一八七一)年七月、県下各地に郷学校を開設させた。その通達は次のようなものであった。
方今人材養育急務ノ秋改テ村々郷学校取建候様尽力可レ致事
一、別紙学校所定ノ通リ二十七ケ所ノ郷学校ハ其組合村中最寄寺院又ハ明家等見立取設方致置早々可二申出一候事付リ師匠ノ義ハ御差図可レ有レ之候得共当分組合衆議ノ上相応ノ人物ヲ撰置其旨可二 申立一候事付リ学校世話方ノ義組合総代并ニ諸則ノ義ハ其村役人ノ者引受精々世話可レ致候事但シ学校ニ志シ有レ之輩ハ協力周旋可レ致候義ハ勿論ノ事ニ候付リ一組合一ケ所ノ学校ニテハ端々不便ノ場處童児通学六ケ敷地方ハ一村限リ別々其最寄ヘ相設候義勝手次第ナリ尤組合中郷党議定ニ洩レ入費割方ヲ省キ区区ノ義無レ之様取計可レ致候事
右ノ通相定メ置猶追々一郡中大学校ヲ設ケ組合郷学校ヨリ学士ヲ選ヒ右郡学校ニ集メ上等ノ教師ヲ差遣シ引立方モ可レ有レ之候間兼テ相心得丹誠セシムヘキ事
(日本教育史資料巻九)
この通達による神奈川県下二七箇所の郷学校について見ると、多摩地区における郷学校は五箇所で、次のような村々の組合によるものであった。
○多摩郡小野路村外三十四ケ村組合
○同郡小仏駒木野両宿外十二ケ村組合
○同郡木曾村外十四ケ村組合
○同郡日野村外三十六ケ村組合
○同郡八王子宿外三十二ケ村組合
此等郷学校が果して通達の通り実現したかどうか、また設置されたにしても充分な活動をしたかどうかは甚だ疑問である。通達と同時に示された規定や学則を見ると、その教育内容は多少現代的なものをとり入れてはいるものの、依然として寺子屋時代の教育とあまり変らない。恐らくこの郷学校は、充分な活動をしないうちに翌年の学制発布にあい、立ち消えになってしまったものと思われる。しかし詳細をきわめた入費高割当方法や学則・日課などの諸規定は、学制以後において方々の村に自然発生的にあらわれた、公立小学校の前身となる手習塾の経営に、直接間接さまざまの影響を与えたであろうことは想像がつくのである。
神奈川県小学規律(竜津寺所蔵)