「執中舎」(執中学舎とも称した)を設立したのは、大神村の豪農中村半左衛門(知常と名乗る)であった。先に福厳寺の寺子屋の筆子代表格として名の出ていた嘉右衛門はその父と思われる。彼は学制公布と共に小学校の必要を痛感し、自ら学校世話役となって奔走尽力して、遂に明治六年五月、大神村観音寺を校舎とする執中舎を設立したのである。彼と共に学校世話役となって活動した人に、中神村の中神光国がある。すなわち前述の福厳寺の光国和尚である。その関係もあったのであろう、明治六年の執中舎設立と同時に、中神村福厳寺にも執中舎分校が置かれた。すなわち光国和尚の寺子屋はそのまま新時代の小学校へと移行したのである。
卒業証番(中村博紀家所蔵)
執中舎の発足当時の学校後見職(校長ともいうべきもの)は南多摩郡長沼村の人窪素堂で、読書教師は拝島村の大沢浜次郎、習字教師は大神村の中村朝次郎、算術教師は宮沢村の田村金十郎であった。明治七(一八七四)年発行の「文部省第二年報」によれば、大神村の執中学校は教員男子二名、生徒は男子五二名、女子一八名、受(ママ)業料は月額平均四銭三厘となっている。〝平均〟というのは、一家庭から二人以上通学する場合には額が安くなるためである。
執中舎のほかにも、昭島附近にはほぼ同時期にいくつかの学校が開設された。執中舎と同時に開かれた中神村の同校分校が、二ケ月後に共明学校として独立したほか、拝島村には明治七(一八七四)年設立の知遠学舎があり、福島村では既に明治五(一八七二)年、小川雄三が私塾を開いて読書習字を教えていたという。この私塾が公立小学校となって釐歩(りほ)学校と改称したのは、玉川小学校の沿革誌によれば明治九(一八七六)年のことである。しかしその前年発行の文部省第三年報に「釐歩学校」の名が見える。従って同校の設立は明治八年以前であることは確実といえよう。
執中学校(及び分校)・知遠学校・釐歩学校の三校は、今日昭島市内の小学校一二校のうちでも特に由緒ある成隣・拝島第一・玉川各校の源流にあたる。しかし、設立以来の経過をたどって見ると、この三校は実に複雑な形で分裂・統合を繰り返していることがわかる。(次ページ系統図参照)それは児童の通学の便不便といった教育上の配慮によるというより、地区の利害関係の衝突が原因となった場合の方が多かったらしい。政争の激しい土地柄であったから、政治的なケースに起因するものも中にはあったことと思われるのである。
昭島地区初期学校系統図