三 初期小学校の経営

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 初期の公立小学校は、それではどのようにして経営されるのであろうか。どこにおいても、初期の学校は熱意ある地元民の手によって維持運営が行なわれていた。これは日本の近代学校制度が、その最初から「受益者負担の原則」を強いられていた結果でもある。
 現在昭島市の旧家のうちの何軒かには、そうした学校の維持運営に関する文書が所蔵されている。それはその家の先人が、学校世話係等の役についていた関係で伝えられたものであろう。たとえば中神町の西野秀一家には、明治九(一八七六)年以来数年間の学校資金取立簿が保存されている。ほとんどが中神学校に関するものである。「学校資本利子取帳(明治九年)」「資本利子取立簿(明治一二年)」「学費取立原簿(明治一三年)」「学費募集録(明治一四年)」など、年度によってその題名はまちまちであるが、村の各戸から一定比率(「学費取立原簿」の例でみると地価金の四掛)の金額を割当徴集していたことには変りはない。年度によって金額に多少の変動があるが、ほぼ毎月一一円から一四円程度の合計額である。これと通学生からの授業料との合算が、学校運営費にあてられていたのである。
 別な事例をあげて見よう。大神町の中村保夫家所蔵の文書綴の中に、明治九(一八七六)年一月の拝島学校の収支報告がある。短いものであるから、全文を左に掲げる。
  学校入費書上
       第拾弐大区五小区
            拝島学校
明治九年一月分
一金拾三圓七拾六銭三厘八毛 資本金利子取立金額
一金三圓五銭        生徒月謝集金額
合金拾六圓八拾壱銭三厘八毛
      内
   金 拾圓       訓導月給
   金 四圓       助教弐名月給
   金 壱圓三拾弐銭   炭真木代
   金 三拾三銭四厘   水油代
   金 八銭       小学本代
   金 弐拾八銭三厘   色切飴台
   金 拾四銭五厘    脚夫賃
   金 拾弐銭五厘    製茶代
 等以金拾六圓弐拾八銭七厘
 差引五拾弐銭六厘八毛   己全
 
 右者本年一月学校入費仕払前記之通相違無御座候以上
      右
       御用懸兼
       学校世話役
 九年第二月     秋山禎之輔 印
       戸長
           中村半左衛門

学校入費書上(中村保夫家蔵)

 拝島第一小学校の沿革誌によると、同校は明治一〇(一八七七)年校舎を村内の龍津寺から普明寺に移した際、校名も知遠学舎を改め拝島学校を創立したということである。しかし明治八(一八七五)年の文部省第三年報からこの年の新設として拝島学校の名が登場してくるところをみると、明治八・九年ごろは知遠学舎と称しながらも、すでに公式的には拝島学校として認められていたらしい。この文書の存在はそれを裏書するものである。
 明治九(一八七六)年の文部省第四年報に拠れば、この年の拝島学校は校舎として寺院を使用していた。これはまだ龍津寺のことであろう。教師は男三名、生徒は男六六名、女二〇名という陣容であった。この規模は教師五名を擁する多摩村の東多摩学校、同四名の同村羽村学校、同じく四名の五日市村勧能学校に次ぐもので、多摩地区の中では生徒数からみれば平均的であり、教師の数においてやや恵まれているというところである。しかしこの文書によればその三名も正訓導は一名だけであとの二名は助教であった。訓導の月給一〇円もやすいが、助教の月給に至ってはわづか二円、一日当り(一ケ月二五日として)八銭にすぎない。恐らくこれは村内のボランテイアによるものであろう。日本の初期の近代初等公教育は、このような熱心な人たちの献身的な努力の上に成り立っている場合が、かなり多いと考えられるのである。

現在の竜津寺