一 学校の統合、分離をめぐって

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 明治九(一八七六)年ごろまでに昭島地区に設立された小学校は、前節までに述べた三校であった。しかし学校は発足したものの、以後の発展の足取りは決して順調ということはできない。
 沿革誌の記載が詳細で、発生した問題がよく判るのは成隣学校の例である。それによれば明治九~一〇年ごろは教員の移動が激しく、正訓導・助教とも更迭に次ぐ更迭という有様だったらしい。
 本校の如キ昨日漸ク其来ルヲ見レバ今日己ニ其去ルヲ見、今日漸ク其来ルヲ見レバ明日己ニ其去ルヲ見ル、当時人ノ小学校教員ヲ以テ世間ノ渡髪結(わたりかみゆい)ニ比シタルモ決シテ偶然ニ非ザルナリ(成隣尋常小学校沿革史・明治三一〔一八九八〕年編)
 という記録が残されている。こうまで更迭の激しかったのは、数ケ村の合同組合立という学校の複雑な事情にもよるが、やはり教員の質自体にも相当問題があったのだろうと思われる。全国の都市と田舎とを問わず、日本中で小学校が設立されつつあった時期だったから、訓導といってもかなりあやしげな者がまぎれ込む恐れは大きかったのである。
 成隣学校は明治一〇(一八七七)年に中村高利が首席教員となって漸く更迭は止んだものの、今度は学校の統合問題が火を吹いた。成隣・釐歩の二校は明治一一(一八七八)年五月、合同して精業学校となったが、通学区域が広すぎて低学年児童の通学に困難を来すという声が起って来たのである。これが地元の利害とからみ合ってもめた揚句、遂に合同後僅か半歳で精業学校は空中分解してしまい、成隣(大神、宮沢、上川原各村組合)・中神(中神村)釐歩(福島・築地・郷地各村組合)の三校に再分裂したのであった。学校の統合というのは現在でも、新学校の設置場所をめぐってトラブルが生じやすいのであるが、精業学校の場合も寺院の間借から独立校舎を新築しようとして、その敷地決定が騒動のきっかけとなったのであった。
 学校ノ分合村民ノ挙動何ゾ夫レ児童ニ等シキヤ
と、「成隣学校沿革史」の編者佐藤勝次(後同校校長)は嘆いている。

肋木での記念写真(成隣小学校『創立百周年記念誌』より転載)