二 教員の構成

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 初期の小学校をめぐっての揉めごとは、その騒ぎの大小の違いはあっても、全国どこにでも見られたことであった。昭島地区もまた例外ではなく、前述したようにいろいろな事情から、校舎や教員に関して往々問題が生じたのである。しかしこのようなことはあっても、殆んどの教員は熱意に燃え、熱心に児童を教育したのであった。
 昭島地区に赴任して来た教員は、どのあたりの出身者だったのだろうか。寺子屋とか私塾とかいう印象があるので、初等教育は地元の人の手で行なわれたように一般に考えられがちであるが、実際についてみるとそれほどではないようである。
 昭島地区の学校の中でも統廃合の影響が比較的少なかった拝島小学校(現拝島第一小学校)の場合で見ると、首席訓導の地位がはっきりした明治一三(一八八〇)年から大正八(一九一九)年までの四〇年間、在職した首席訓導・校長九名の氏名と出身は次のとおりである。
 木村新之助    東京
 中村吉太郎    徳島師範卒業生
 平尾賢      但馬国出石
 牧龍五郎     愛知師範卒業生
 永野資幸     鹿児島
 鈴木鼎      南多摩郡
 関根孝三郎    駿河国沼津
 五島春喜     稲城村
 橋本重太郎    拝島村(明治年一六年就職明治三七年校長就任)
 すなわち校長の中で純粋に地元出身といえる者は橋本氏一人しかいない。また、同校が設立年とする明治一〇(一八七七)年以来沿革誌の完成を見た大正初年までの約半世紀の間で、着任がはっきりわかっている一般教員は三〇名にのぼるが、その中で、武蔵国出身者は一二名、そして北多摩郡は拝島村二名、久留米村・喜多見村・砂川村・立川各村一名であった。その他で比較的近いと思われる者も、東京市内二名、日野町・稲城村・豊多摩郡井荻村出身者が各一名づついるにすぎない。一方地方出身者は、茨木県・新潟県・福島県各二名、福井県・栃木県・京都府各一名にものぼる。小学校教員の全国的な交流は、どうやら意外と早くから行なわれていたようである。

拝島小学校(拝島第一小学校『創立百周年記念誌』より転載)