三 小学校の発展

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 小学校の維持費はほぼどのくらいになっていたであろうか。一例として、拝島小学校における明治一七(一八八四)年より四二(一九〇九)年までの学校経費の変遷を、一覧表として掲げれば次頁のようになる。

拝島小学校維持経費

 この表についてみると、明治二八(一八九五)年ごろから、学校経費が急激に増加していることがわかる。これはその前年の五月に高等科を併置するなど、学校の規模が拡大したことによるものと思われる。しかし明治三一(一八九八)年まで、僅か四年の間に学校経費が三倍弱にまではね上っているのは、やはり日清戦争後のインフレーションが大きく影響しているのであろう。さらに、三三(一九〇〇)年の経費が飛び抜けて高い。この年は六月に一九一坪の新校舎が落成し、年度末の翌年三月一六日に校舎落成式及び開校式をあげているので、工事ならびに各種行事のためにこのような金額となったと考えられる。なお三四年から四二年までの男女別児童数が上表のとおり判明しているが、三六年から四〇年までの児童数が著しく多く、四〇〇人を越えていたのはいささか理解に苦しむ現象である。拝島小学校の地域は明治年間を通じて戸数はほぼ二六〇~二七〇戸程度、人口も明治一一(一八七八)年の一一八七人から明治四一(一九〇八)年の一七四〇人までゆるやかなカーブで増加しているが、その間突発的な変化も見られず、男女差もごくわずかである。それなのにこの数年間だけ何故児童数が倍増したのか、誠に不思議である。就学率の向上も原因の一つと考えられよう。しかし、男女の児童数にかなり差のあることは、当時の男女の就学率の差が大きかったこと物語っている。

拝島小学校在校児童数

 学校の校舎についていえば、昭島地区の小学校はいづれも寺院の間借から出発している。これは、或程度まとまった人数を収容するだけの広間を持つ建物は、当時としては寺院しかなかったからであろう。昭島で小学校が曲りなりにも独立校舎を持ったのは明治一四(一八八一)年、共成小学校が福島神社境内に四〇坪の校舎を新設したのが最初である。次いで中神学校が再興された明治二三(一八九〇)年七月、民家を改造した校舎が設けられた。

釐歩学校が置かれた福島村広福寺(昭和16年撮影・同寺提供)

 然しながら、此等の校舎はいわば間に合わせともいうべきもので、その広さにせよ設備にせよ、いろいろ不備な点が多かった。昭島地区の本格的な小学校校舎は明治二六(一八九三)年一〇月に俊工した成隣小学校が第一号と考えられる。これは文部省の設計に従った建坪七五坪の校舎で、建築費八〇〇円は全額村内有志の寄付によったという。このあと拝島小学校が明治三三(一九〇〇)年六月に至って一九一坪の新校舎を建設した。この方は大きいだけに主体工事だけで三、二四七円六銭三厘、開校式費まで含めた総建築費は五、二八五円四一銭一厘にのぼっている。そして最後に中神・共成の二小学校が明治四五(一九一二)年に合同した玉川小学校が、翌大正二(一九一三)年五月九、八〇〇円八八銭の工費で三二三坪の校舎を新設し、ここに昭島地区の小学校は一応すべて本格的な校舎に入ったわけである。
 また昭島地区においては、明治二七(一八九四)年拝島小学校に初めて高等科が設立され、拝島尋常高等小学校となった。他の小学校は依然として尋常科のみであったが、大正三(一九一四)年成隣・玉川小学校が揃って高等科を設置して、昭島地区はすべて尋常高等小学校となった。そして大正以降、此等三小学校は多くの卒業生を送り出しつつ、各地域の中心としてそれぞれの発展をとげて行くのである。

大正3年3月,玉川尋常高等小学校朝礼風景(中神を知る会提供)