多摩川の砂利採取風景(福生市役所提供)
明治政府は成立以来「富国強兵」の実現をめざし、積極的に欧米先進国から近代産業を移植し、その扶植・育成に力をそそいできた。
この殖産興業政策により軍事工業・鉱山・鉄道・通信業などの官営工業や紡績業・製糸業などの模範工場が設置されたのをはじめ、農産業などにも官営事業の創設がおこなわれた。民間産業の自主的発展の弱かったわが国では、政府が自ら産業育成の指導権をとって、上から近代産業の成立を促進しなければならなかったのである。
これらの官営事業は明治一四(一八八一)年松方蔵相によって着手された紙弊整理と並行して、軍事・運輸・通信部門を除き一〇年代後半から順次民間に払い下げられ、民間における近代産業発展の土台をなしたが、それはまたいわゆる財閥の成立をうながすことになった。政府の先導による近代産業の育成は、まず軽工業部門での近代化をおし進め、二〇年代はじめ頃には紡績業などはすでに機械化を達成して、近代産業へと脱皮していた。
こうした資本主義化の動きは、いやおうなく農村をも資本主義の波にまきこんでゆくことになる。そのなかで昭島市域の産業はどのような状態であったろうか。以下それをみてゆきたい。