農業における養蚕業の盛業につれ、農業以外の諸営業の活動も活発になってきた。明治一二(一八七九)年の中神村では商業戸数二〇戸、染物・木綿織物・大工などを職業とする戸数一八戸と、全戸数の約三分の一が、農業外の余業に従事するようになっていた。かつて農間渡世をしていた農民で新しい商売に切りかえる者も多くなってきた。宿場町であった拝島村では商工業の割合が他の村に比べて格別に高い。明治一五(一八八二)年には全戸数二二七戸のうち商業九〇戸、工業五二戸で、農業との兼業もあるであろうが、農業専業戸数を凌駕している。当時どのような商工業があったかを、拝島村の例でみてみればつぎのようである。
商業 九〇戸
卸商 五 酒類小売 三 仲買 二 売薬商 三 諸小売 二三
荒物商 二 魚商 三 穀物小売 一 小間物商 一 飴小売 一
蚕種業 一 揖料屋 五 質屋 八 古着屋 五 古道具屋 二
旅館 九 料理屋 二 飲食店 一四
工業 五二戸
糸撚業 四 撚職工 六 大工 八 左官 一 桶屋 二
建具職 二 織物業 二 下駄職 五 醤油製造 一 炭製造 一
鍛治職 一 提灯屋 二 紺屋 一 釣針製造 一 酒類製造 一
生糸製造 一 筬取 二 豆腐屋 一 水車 六 理髪屋 一
湯屋 二
機織工女 一三〇人、生糸工女 三〇人、糸撚職工 九人、人力車夫 三二人、漁業(兼業) 三〇戸 九〇人
(「公用雑録」市役所文書)
工業のうちには職人層もあげられているが、商業で一〇〇〇円以上の売り上げを示すのは生糸製造一人、卸商二人、酒類製造一人、酒類小売一人、糸撚業一人の六人で、商業がいまだ工業をしのいでいる。
そうした未発達な工業のなかで島田成徳の製糸工場は、蒸気動力を使用する最新式の工場であった。島田氏が拝島村に製糸工場を設立したのは明治一三(一八八〇)年のことで、三年後の明治一六(一八八三)年工場の増築を郡長に上申している。その上申書は彼の意図や創業以来の事業経過を説明しているばかりでなく、また当時の製糸工場の実態を明らかにしてくれるのでつぎに掲げてみよう。
上申書
北多摩郡拝島村
所有主 島田成徳
一 製絲場
創設
明治十三年一月ヨリ土木ノ功ヲ起シ仝年七月ニ至リ略ホ竣成シ茲ニ創設ノ功ヲ見ル
位置
神奈川県北多摩郡拝島村字花井第九百九十九番地ナリ
男女職工
男五人女四十三人男女合計四十八人
開業後ノ盛衰
商況ハ創業以来凸凹以テ筆舌ニ尽セスト〓モ概略ヲ挙クレハ明治十四年一月ヨリ生糸発売ノ目当ヲ立テシニ茲ニ有志ト量リ仏国里昂府エ直輪販売ノ路ヲ開キ我製造スル処ノ生絲ヲ遠ク海外ニ売却シ近クハ外人ヲシテ地方ノ生絲竈勉労シテ精製ニ至リシヲ明知セシメ遠クハ国産ニ執心スル元気ヲ名誉タラシメント陸続輸出スルニ十四年ノ第四月ヨリ仏国ノ商況不昧ノ報アリ降テ仝年七月ニ至リ少シク上進ノ萠ヲ得タリ其后三四ケ月間差シタル動静ナシ仝十一月ヨリ翌年則十五年三月迄不昧ノ姿タナリシカ仝四月頃ヨリ亦回復シ其際仏国直輸販売ヲ罷メ横浜商会専売ニ定ム仝年十一月下隠ヨリ又価値殆ント地ニ墜チ現時ニ至ルマテ未タ挽回ノ景況ヲ見ス方今ハ実ニ製絲家ノ一大困難ノ秋ト謂フヘシ
資本金額
建造物器械其他一切ノ資本金七千円トス
前途の目的
従前ハ三馬力半ノ蒸汽鑵ヲ用セシカ其功充分ナラス故ニ方今更ニ九馬ノ蒸汽鑵ヲ購求シタリ因テ木材ノ整頓次第器械ノ増築ヲ全フスヘキ考量ナルヲ以テ建造物竣成ノ後一層製糸ノ数量ヲ増殖セハ盛大ヲ見サルモ少シク将来ノ目的を固フスルナルヘシ
(市役書文書)